残りは今も地中に埋められている【旧鷺田橋親柱】

先日、二日市から福岡方面へ向けて、通りを風のように駆け抜けていたら↓

その道すがら、通り沿い右にいきなりオブジェがありましたので↓

え、なにこれえって言ったのだった。こんにちは。↓

同じようなオブジェが二つ並んでいて、寄って見てみると『鷺田橋』と記してあります。↓

そしてすぐそばに説明書きのプレートがありましたので↓

さっそく読んでみると↓

旧鷺田橋 親柱。昭和初期、国道の改良工事が進み、鷺田橋の工事もこの時に着工。それから現在の橋に架け替え工事が始まる平成30年まで86年にわたり、この親柱は橋の欄干を支え続けてきました

とありました。なるほど86歳!おめでとうございます。さて説明書きは続きます。↓

4本の親柱のうち2本は展示し、残り2本は地中に埋めて保存。※「親柱」とは橋の両端に設けられ、欄干を支える柱

とのこと。そしてこちらは、プレートに添えられた、昭和7年当時の写真と↓

架け替え前の橋の様子。↓

からの、私が激写した現在の橋の様子。↓

下に流れるのは鷺田川で

左に沿って川を辿っていくと↓

以前、日田街道散策で訪ねた、あの!

「檜垣媼の白川(鷺田川)」へ到着。橋の名前は「多々良橋」。その橋のそばに立つ説明書きを読んでみると

鷺田川はかつて18世紀に二日市と福岡を結ぶ水運に利用されていたんだよ

とありました。

(※運河のお話はこちらの記事でも!↓)

そこからさらに川に沿って進んでいくと、通りは筑紫野古賀線と交差するわけですが↓

その交差点の手前にはいくつか謎の碑が並んでいるんです。で、ですよ。↓

どうやらここは『運河の入船跡』らしいんです。たった今グーグルマップで知りました。(入り船とは、港に入ってくる船、の意だそう)

え待って!?つまり、運河の船はここに係留していたということ!?

ちなみに以前訪ねた白木原『新川緑地』の説明書きには↓

江戸時代、筑紫野市入船町(現在の大賀酒造の裏、高雄川)から福岡市春吉の九電地下変電所のところまでおよそ20粁(キロ)におよぶ巾10米(メートル)深さ2米~3米の運河を福岡藩がつくっていました

とありました。入船町?地名?

そこで、大賀酒造の裏側へ向かってみることにします。

二日市商店街の端の角に大賀酒造があって↓

そこから奥へ進んだ先に↓

橋が架かっている。↓

こちらは「平成橋」。↓

そして下に流れるのは「高尾川」で↓

大賀酒造の裏側はこんな様子。↓

ここが運河の始まりの場所、と説明書きにはあったわけですが↓

じゃあ「入船」と「運河の始まり」は別物ってこと!?なんだか良く分かりません。また詳細が分かり次第、

緊急でご報告します。ではごきげんよう。

【旧鷺田橋親柱】

福岡県太宰府市都府楼南4丁目