あと一層のところで力尽きた結果【油山観音03】
前回の続きです。↓
前回はといいますと、福岡市城南区にある【油山観音】の山門をくぐり↓
その足で『両烈士 自刃の碑』を訪ねたのでした。↓
そうしてそこからさらに山道を進んで、『油谷』と呼ばれる場所へもちらっと寄ってみたのでした。こんにちは。↓
今回は、いよいよようやっと【油山観音】境内へお邪魔したいと思います。↓
緑の中を続く石の小路を歩いていきますよ。↓
そしていくつかある石段を上った先に↓
説明書きが立っていましたので↓
まずはこちらを読んでみたいと思います。↓
新羅式石門。黒田忠之公建立の桜門跡に、明治23年(1890)、古代朝鮮から渡来した石門造の技法で建立されています。この石門は一人の修行僧が造ったもの。本来三層の屋根が二層になっているのは、建造中に力尽きたその結果
とのこと。ん?元々桜門があった跡の場所に、あらたに建てられたのが新羅式石門ということのよう。じゃあ桜門はどうなっちゃったの。深まる謎はさておきまして、こちらが『新羅式石門』である。↓
三層だけど力尽きて二層まで。↓
石段は右側からも上れるんだけど、↓
せっかくですので、石門をくぐって上りましょう。↓
ちなみに右側石段先の碑には、↓
『不許葷酒入山門』と記されています。どういう意味だか良く分かりません。お酒を飲んで山門を入っちゃだめ!ってこと!?ちなみに「葷」とは匂いの強い野菜の意、だそう。
さて石門を抜けると、目の前に本堂。↓
国重要文化財。↓
振り返ってみた石門の姿。↓
本堂周辺はこんな景色で↓
お地蔵様や仏像などがあちこちにたくさん並んでいます。↓
石像そばに説明書きがありましたので↓
さっそく読んでみると↓
十六羅漢石像。慈しみの庭に配置されている羅漢尊者は享和元年(1801)に大神九郎次に寄進されたもので、「石仏」にちなんで昭和初期、福岡市によって油山十六景がつくられ、一番から十六番まで順番に周れるようハイキングコースが整備されました
とのこと。ちなみに前回訪ねた『鎮西上人霊蹟』には、油山十六景の一つとして「鎮西国師学生寮」がありましたし↓
また少し前のお話で恐縮ですが、油山『夫婦岩展望台』(↓)を訪ねた際にも、「夫婦岩」に油山十六景の文字を見つけました。いつか十六景全部辿ってみたい!
境内奥のところに鳥居があって、扁額には「海神社」。↓
階段の先を見上げてみれば、この急傾斜である。頭がくらくらである。↓
すくむ足をなんとかこらえ、引けた腰をくねくね捻りあげ、ようやく上り終えたら、目の前にいきなり社殿。余白なし。すきまゼロ。↓
社殿の奥に本殿。
そして本殿そばに境内社。
上ったはいいんだけど、下りるのにも一苦労です。↓
そうして下りた先には「弁財天像」。↓
またずらりと並ぶ石碑はそれぞれ、↓
右から「行基菩薩」「清賀上人」「平田慈均禅師」だそうで、↓
説明書きがありましたので、各々読んでみることにします。まず「行基菩薩」。↓
聖武天皇の旨を受け東大寺・国分寺の建立を補佐。我が国最初の大僧正。文殊菩薩の化身と言われる
それから「清賀上人」。↓
油山観音の開山。敏達天皇御代の渡来僧。群生する椿の実から搾油し、灯火をもたらす。地名の由来
最後に「平田慈均禅師」。↓
元に渡り修行。帰国後、京都東福寺の住職となり、博多承天寺の住職となる。東西油山720の僧坊を禅宗に改宗。また油山観音の中興開山
といったところで、ずいぶんお話も長くなりましたので、↓
お話の続きは次回に!よろしくお願いします。↓
【油山観音】
福岡市城南区東油山508