唐津街道(一部)を辿ってみた15【探題塚】
前回の続きです。↓
前回はといいますと、久しぶりに『鷲尾愛宕神社』を訪ね、ザほおずきんちゃんズと感動の再会を果たしたのでした。なんか合成っぽい写真じゃないですか。↓
では続きます。姪浜近辺の史跡を紹介する案内図の中に↓
『探題塚』なる場所があるのを見つけましたので、『唐津街道』を辿る道すがら訪ねてみたいと思います。↓
案内図の説明書きによりますと↓
鎌倉時代延元元年足利尊氏は九州統制のため一色範氏を九州探題として置きました。最後の探題は渋川尭顕で1534年戦いに敗れこの地に埋められました
ということなんだそう。↓
唐津街道は少し先で明治通りに合流するので、そのまま一緒に沿って右へ曲がり、
今度は明治通りを離れ、右の通りへ逸れていきます。↓
そして姪浜小学校脇を走る小道へ入っていくと↓
『探題塚』へ到着です。↓
さっそく階段を上って↓
上り終えた場所にちょっとしたスペースが。スペースというか境内で、↓
それから手水舎。↓
そばに説明書きがありましたので↓
読んでみると↓
姪浜は元寇の折、鎌倉幕府が元寇の来襲に備えて探題を置いたところです。鷲尾城(今の愛宕山)や防塁を築造したり点検報告を各守護にさせています
続きます。↓
初代探題を北条時定といい、弘安5年(1282)以降姪浜浦山館でその任に当たりました。その後、足利一族が探題となり、幕府の任命する最後の探題渋川尭顕は、ここ光運寺山城(万正寺山)で戦死。この尭顕を葬ったのが探題塚
とのこと。ここはかつて山城であったという記述。
光運寺で、かつ万正寺。むむ。どっち!?どっちもどっち!?
もう少しお話は続きます。↓
250年の永きに渡り防塁を構築し外敵の侵攻から日本を護りました。数年前の大風雨で荒廃した本殿寺を修復し完成しました
奥にお堂。ちょっと失礼します。↓
なにかしらの文章。なんとか『万正寺』だけ読むことができました。↓
境内奥の鳥居には『埴安神社』と記されているんだけれど↓
この先へ進むことはできないようになっていました。↓
といったところで、参拝も見学も終えましたので『唐津街道』へ戻ることにします、が
今回はここまで。お疲れ様でした。
現在、福岡市西区の姪浜地区まで辿り着いています。
さあ残すところあと2回きり。
いよいよ旅路も終盤です。次回もよろしくお願いします。↓
【PR】HISTORY OF TSUSHIMA 元寇と対馬の歴史
【探題塚】
福岡市西区姪の浜2丁目15-49