怒らせたらダメな人を怒らせて【日吉神社/観世音寺05】

前回、前々回と私は【観世音寺】を訪ねたり(→紫陽花の花言葉は移り気【観世音寺01】)↓

さらにそこから【宝蔵】を見学し(→ご対面してからがスタートな宝蔵【観世音寺03】)そして↓

【戒壇院】(→山門までの雰囲気がいい戒壇院【観世音寺04】)を駆け抜けたりしてきました。こんにちわ。

これまでに訪れた【戒壇院】と【観世音寺】の間には、南北にのびる細い道があって↓

今回、私はその道を北へ向かってみましたのでそのお話をしたいです。↓

北へ続く細い道は、少し先のところで『歴史の散歩道』という小道と交わるようになっていて↓

ちょうど【観世音寺】の裏側にあたる場所でもあります。



そこには【観世音寺】の礎石と案内板があって↓

また、通りの向かいを見てみると、すぐのところに【日吉神社】が鎮座しています。↓

さっそく近づいてみることにしました。一の鳥居には扁額。どうやら「ひえ」と読むらしい。↓

参道入り口のところに案内板がありましたので↓

読んでみたいと思います。↓

7世紀後半の創建と伝えられています。【観世音寺】が天台宗と結びついた平安時代に、同寺の鎮守として日吉大社を分霊し祀ったと考えられています。

そして

江戸時代までは山王社と呼ばれ、明治時代の神仏分離により日吉神社に。

また↓

天正15年(1587)、島津を討った豊臣秀吉は日吉神社に陣を張ったと伝えられています。その時の【観世音寺】別当が秀吉を怒らせてしまい、寺領を百町だけ残しあとは没収してしまったと伝えられています。

とのこと。怒らせてしまった!!

ここから階段をのぼるんだけど↓

手前にはなにかの石塔などがあって↓

そして、このいい感じの階段を↓

頑張ってのぼり終えると、その先の境内に社殿が見えます。↓

さきほど読んだ案内板には、この社殿に関する記述があって↓

本殿は一間社流造、拝殿は正面三間、側面二間の入母屋造。木鼻や虹梁など当時の建築様式であり、江戸期の貴重な拝殿をそなえた本殿です。
本殿は17世紀、拝殿は正徳4年(1714)の建立です。

とのこと。

また案内板にはこういう記述もありました。↓

この社叢は、スダジイ・アラカシ・イチイガシを中心とする常緑広葉樹の森。

社叢というのは

神社において社殿や神社境内を囲うように密生してる林のこと。(weblio辞書より引用)

つまり鎮守の杜だということでしょう。

さて、ここ【日吉神社】のご祭神は「大己貴神(おおなむちのかみ)」「大巳咋神(おおやまくひのかみ)」。

こちら本殿。↓

そして向こうの森の辺りが【観世音寺】です。↓

『太宰府市文化ふれあい館』のサイトによりますと↓

非礼に激怒した秀吉は、観世音寺の寺領を没収、百町の寺領だけは残されました。その後、九州一の名刹であった『観世音寺』は、江戸時代に復興されるまで、いちじるしく衰退してしまったのでした。

とのこと。次回に、玄昉のお墓を訪ねたら、この一連の訪問もいよいよ終わり。

よろしくどうぞ。続きはこちら!(→玄昉のお墓で観世音寺訪問もおしまい【観世音寺06】


【日吉神社】

福岡県太宰府市観世音寺5-12