玄昉のお墓で観世音寺訪問もおしまい【観世音寺06】

というわけで、前回の続きです。(→怒らせたらダメな人を怒らせる【日吉神社/観世音寺05】

これまで私は、福岡県太宰府市にある【観世音寺】界隈を、数回に渡ってあっちへ行ったりこっちへ行ったりしてきたわけですが↓

今回『玄昉のお墓』なる場所へ行って、その訪問もいよいよおしまいです。↓

で、その玄昉の供養塔は現在【観世音寺】や【戒壇院】から北へちょっと進んだあたりにあって↓

こちら、お墓とはいうけれど、実際は供養塔らしい。

そもそも玄昉という人のお墓が、いったいなぜこの地にあるのかというと↓

それは、かつて【観世音寺】が玄昉を導師としてこの地へ迎えたからとのこと。↓

こちらの説明書きによりますと↓

玄昉は中国に渡り、玄宗皇帝によって紫袈裟を許されました。帰国後、宮廷で権力を奮うも、観世音寺別当に左遷され、その翌年の観世音寺造立供養の日に死去。政敵であった藤原広嗣の霊に殺されたとも伝えられています。

とありました。

もう少し詳細について、wikipedia内玄昉の項を参照してみると、こんな具合。↓

玄昉は奈良時代の僧。阿倍仲麻呂、吉備真備らとともに遣唐使として入唐。そして在唐18年。天平7年(735)に帰国します。

そののち↓

聖武天皇の母藤原宮子の病気を祈祷で回復させるなど、聖武天皇からの信頼が厚かった。一方で人格に対する批判もあり、藤原広嗣は吉備真備と玄昉を排除しようと九州で兵を起こしたが失敗しました。

ですが結局↓

橘諸兄政権の失速により、玄昉は天平17年(745)に筑紫観世音寺へ左遷され、翌18年(746)にその任地で没したのでした。

そして伝承によれば、玄昉の体は筑紫のこの地から飛来し、5カ処に落ちたとのこと。

それはつまり玄昉が5つに分かれて飛んでいったということ。

そして、それらが落ちた場所はそれぞれ首塚(頭塔)だとか胴塚とか呼ばれて、現在にも伝わっているのだそう。

さて、以上で【観世音寺】の愉快な散策はひとまず終了。

かつて西国の中心寺院として知られた【観世音寺】。東大寺にも匹敵するとも称された大寺院だったけれど、二度の大火があったり秀吉に怒られたり。

歴史の渦に巻き込まれた【観世音寺】は、江戸時代の復興を待つまで、長い衰退の時期へ入っていくのでした。


【玄昉の墓】

福岡県太宰府市観世音寺5丁目9-33