長崎街道・日田街道・薩摩街道が接する要所【日田街道14】

前回の続きです。こんにちは。

さて前回はといいますと、数回に渡って辿ってきたように【日田街道】を歩いていたら、

その道すがら「旧長崎街道」へと進む道と出合いました。↓

また、そこから少し進んだ先には『山家宿番所跡』があったりして、見どころが多い楽しい散策となりました。↓

ちなみに『山家宿番所跡』ですが、これがいったいなんのことなのかさっぱり分かりませんので↓

案内板から参照したいと思います。↓

長崎街道・日田街道・薩摩街道が接する要所の山家に番所を置き、通行人を取り締まった

とのこと。取り締まり!!恐怖!!終わりの始まり!!といったところで、今回も元気に日田街道を辿っていきましょう。

(※のちに山家宿を訪ねたお話はこちらで!↓)

関係ないんですが、最近歯が痛いんです。そうそう奥歯。まいったまいった。

 

さて「間片」の信号の先には、↓

JRの踏切があって↓

とっとと渡って先へ進みます。↓

これは「間方橋」で↓

民家には猿田彦。↓

こちらにも猿田彦。↓

「蔵役」交差点の脇には↓

地下通路が。信号待たなくていいから、助かりますね!↓

そうして地下通路を抜けると、↓

通りの右手に、なんだか気になる史跡!?を発見。ちょっと寄ってみることにします。↓

近づいてみると↓

案内板があって↓

読んでみると、こんな具合。↓

古市彦太夫の墓。中牟田は朝日村から分かれた村。江戸時代には黒田藩に属し、宮崎藤右衛門が治めていました。秋月藩でお家騒動が起こり、黒田藩から藤右衛門を家老として迎え入れたので、中牟田村は秋月藩に編入されることになりました

勝手にまとめますと、宮崎藤右衛門が治めていた中牟田は黒田藩に続していたけど、秋月藩のお家騒動で、宮崎藤右衛門が黒田藩から秋月藩へ家老として移ることに。それに伴って中牟田も秋月藩に編入、ということみたい。続きます。↓

この宮崎家に古市彦太夫という家臣がいました。農業用水の大改築を成功させました。また、江戸時代の終わり頃、運河を掘る計画があったけれど、明治維新のため中止になってしまいました。彦太夫のお墓は以前には街道沿いの「地輪なみ」という場所にあったけれど、移築されてこの場所へ

ということだそう。↓

たくさん石碑が並んでいて、どれが古市彦太夫のお墓だか分かりませんでした。↓

またすぐそばには「追分石」も立っており、↓

ぼやけててごめん許してなんですけど↓

説明書きには、こうあって、↓

江戸時代初頭の道標。「右 肥後薩摩道」「左 豊後 秋月 日田 甘木」と印されています。石櫃(いしびつ)は当時、山家宿の下宿として賑わい、道標は山家宿の問屋であった武作が世話人として建てました

たしかにそう記してありました。↓

こちらはなんだろう。↓

さらに道を進むと↓

ここにも案内板。↓

「梨子木遺跡」とあって、↓

古墳時代後期(6世紀)を中心とした大規模な集落跡

なんだそうです。池の向こう側が集落跡なのかな。↓

この池は「松延池」というらしく↓

松延池は夜須町のほぼ中央に位置。ため池の広さは約10haで今でも重要な貯水池です

へえ。思いがけない出合いがいっぱいです。

 

では先へ進みます。↓

石碑があったり↓

田舎道は続くよどこまでも。↓

どこか区切りのいいとこないかなって探してたけど↓

とりあえず今回はここ「曾根田川」でお開きです。↓

甘木はまだまだ先のよう。

お話の続きはこちらで!よろしくお願いします。↓


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【石櫃の追分石】

福岡県朝倉郡筑前町石櫃39-2