大都会の一角だったとかいわれても【杉塚廃寺跡】

先日、私は福岡方面から筑紫野方面へ向かって、福岡筑紫野線をぶいぶいいわせていたんですけど↓

杉塚交差点の手前あたりで、左手に案内板が立っているのに気づいたんです。↓

案内板には『杉塚廃寺跡』と書いてあって↓

つまり、左折したこっちのどこかにあるらしいんだけど、探せど探せど見つからない。



というのも、どうやらここの、間の道を通っていくのが正解だったみたいなんだな。↓

で、しばらく進んでいくと↓

右手に【杉塚廃寺跡】があらわれました。↓

廃寺跡は、実にきれいに整備してあり↓

入り口にはどかんと巨石。↓

このゆるやかなスロープを上っていくと、あずま屋があって↓

さらに奥に見えるのが【杉塚廃寺の跡】とのこと。↓

そばに説明書きがあるので↓

読んでみるとこんな具合。↓

大宰府は奈良時代、「天下の一都会」といわれる大都会でした。杉塚廃寺は大宰府の一角にあり、大宰府政庁から南西方向に約2キロのところにあります。これまで2棟の建物が発見されました。規模は不明、建立時期は出土した瓦などから、700年前後と考えられます。

また↓

この建物は土を幾重にも突き固めた基壇の上に柱を立てる礎石を並べたもの。金堂か講堂の可能性が高い。【杉塚廃寺】の東側には鴻臚館から大宰府まで通じていた官道が通り、廃寺の伽藍は威容を誇っていたことでしょう。

とありました。↓

鴻臚館から大宰府へ続く官道は、水城西門を通るもので、これは外国の使節が使用した道路だとされています。(→ついに西門を通る日がきた01/02【水城06】)↓

使節らは【杉塚廃寺】東を通り、西門を過ぎて二日市まで向かう。

そして「客館跡」で旅の服装を整えなおし↓

それから朱雀大路を通って大宰府へ向かった、そう考えられているとのこと。↓

杉塚寺院の礎石について。↓

また筑紫野市のHPにも記載がありましたので、参照したいと思います。↓

昭和48年、昭和54年の2度の発掘調査で、金堂か講堂と考えられる基壇や礎石、老司系丸瓦・平瓦や頁岩質の石帯などが出土し、8世紀代の寺院であることがわかりました。

そして↓

大宰府政庁から鬼門(北東)の方角にある竈門山に対し、裏鬼門(西南)を鎮護するための寺院と考えられています。
また、外国の使節が大宰府条坊域内で最初に目にする、大規模な建築物であったと思われます。『筑紫野の指定文化財』より

とのこと。かつて威容を誇ったというお寺の跡だけど、今では頑張って探さないと見つからない。そんなところもぐっときます。↓

この記事を読んだ人は、迷うことなく行けるので安心ですね!

それでもたどり着けないって人は、もうそれは仕方ない。


【杉塚廃寺跡】

福岡県筑紫野市杉塚2丁目5-18