それはつまり田中伝説の始まり【薬師山】
以前のことですが、福岡城から甘木まで『日田街道』を辿ったことがあるんです。↓
その道すがら、都府楼地区の小道に公園があって、
そこでこんな案内板を見つけたのでした。
説明書きを読んでみると↓
この付近は小字で東蓮寺といいます。東蓮寺は神武天皇に仕えたという伝説を持つ田中熊別の霊を祀るため、建てられた寺と伝えられています
続きます。↓
寺に関する遺構は見つかっていませんが、東連寺に由来があるといわれる薬師山(線路越しに見える小山)が残されています
とのこと。以前訪ねた際に、この『薬師山』が気にはなっていたんです。が、その時は『日田街道』を辿るのに必死で、訪ねずじまい。
ちなみに当時の様子を振り返ってみると
奥に見える緑の森が「薬師山」なのでしょう、多分
とか言って、妙に澄ました感じでアンニュイな雰囲気を漂わせていたのでした。なんだこいつ。
それから時を経て先日、西鉄都府楼前駅までやって来ましたので、今回あらためてきちんと訪ねてみようと思います。こんにちは。
では都府楼前駅から線路に沿って南へ進みます。↓
しばらく歩くと、足元に『日田街道』を示すプレートが。
こちらの小道が、かつて辿った『日田街道』で↓
そのまま進むと、西鉄の踏切。↓
踏切を渡らずに左へ曲がれば、今回の目的地【薬師山】で
踏切を渡って少し進めば、以前にも訪れた『東蓮寺公園』。
公園入り口に先述の案内板があり
向こうに見えるのが【薬師山】です。
では再び踏切前に戻って、線路に沿って進みます。
すると左手に小山というか丘の姿が。こちらが【薬師山】。さっそく上ってみましょう。
大行事塔。これはいったいなんなのか。↓
ネットで調べてみると、こんな記事がありましたので、一部参照させていただきます。↓
大行事の元は、儀式の指揮をとる僧侶のこと。石塔には、作神あるいは牛馬神、疫病などの信仰を持続しているのがみられる
その他、英彦山とのつながりなど詳細な解説がありました。でも私には!ずいぶん難しかったので!あとはみんなに!お任せします!
では引き続きゆるやかな坂道を進みますよ。
振り返ると、線路と公園。↓
上った先に「蓮花堂」。納骨堂。境内右手にもお墓があって、
正面蓮華堂の左には「地蔵堂」。↓
また境内左奥には「十三仏」が並び↓
それから「薬師堂」で、
薬師如来。↓
「筑紫四国九十番札所」と記してありました。↓
「法華塔」。↓
さてところで。「田中熊別」とはいったいどんな人物なのか!?こちらもネットで調べてみたところ『太宰府市文化財情報』HP内にいくつか記述がありましたので、参照させていただきます。ありがとうございます。↓
東蓮寺は、最澄の筑前七薬師を納めた寺のひとつと言い伝えられる。田中熊別の霊を祀るため、後裔の田中熊秀が建てた寺との伝承が残る。田中の森が西陵と呼ばれるのに対し、薬師山は東陵と言われる
続きます。↓
四王寺山に設けられた神武天皇の行在所を警護した、田中長者の先祖田中熊別。伝説では神武天皇に仕え、大野城の山頂で東夷征伐の武運を祈願した神社の祭主を務め、後に国衙庄(通古賀)に下向したとされる人
とありました。むむ。ここで得た情報を、いったん良く分からないなりにまとめてみますと↓
田中熊別は神武天皇に仕えたという伝説のある人物。その子孫田中熊秀は長者であった。先祖の田中熊別の霊を祀るため、東蓮寺を建てました
で合ってます!?違ってたらすみません。(※田中熊別のお話はこちらでも!↓)
ちなみに!HP内には『大行事』についても↓
大行事とは山王二十一社の中七社のひとつ。牛馬の安全の神様として農家の信仰を受けていた。安政5年(1858)全国的にコレラが大流行し、約三万人の死者。安泰を祈る人々によって、安政7年(1860)に建立されたものと思われる
との解説がありました。なるほど。ふーん、
なるほどお(ささやく声で)。
【薬師山】
福岡県太宰府市通古賀1丁目9-23