庄屋の石碑が一番目立つ【大宰府政庁跡02】
前回の続きです。↓
前回、福岡県太宰府市にある【大宰府政庁跡】を訪ね↓
目の前に広がる広大な敷地をウロウロと徘徊していたのでした。↓(実際に訪ねたのは夏頃のこと)
ちなみに【大宰府政庁跡】というのは、ざっくり言うとかつての役所跡。その敷地内には『南門跡』があって『回廊跡』がありそして『中門跡』もあったと。↓
では今回も引き続き、敷地内を怪しく歩き回りたいと思います。こんにちは!↓
さっそく右サイドを駆け上がり、敷地の奥のほうまで向かいます。↓
この「脇殿」っていうのは、名前から推測するに、サイドの建物っぽい。調べてみると↓
正殿の両脇に控える建物
なんだそうです。
振り返るとこんな景色で↓
左を見ると、敷地中央に大きな石碑が立っている。目立ってるし気になります↓
そうこうしているうちに、敷地奥までやってきました。
向こうに見えるのが政庁正面入り口で↓
さっき見た大きな石碑もだいぶすぐそば。↓
敷地の一番奥には「後殿跡」が。(※後殿とは、正殿の後ろに建てられた建物のこと、だそう)↓
この位置が、敷地のちょうど真ん中辺り。↓
正面から見たら、左側の景色で↓
正面から見たら、右側の景色。↓
そして中央にそびえ立つ3つの石碑。
真ん中の碑には『都督府古跡』と記されており、これは、かつて庄屋が自費で建てたものだそうです。石碑の裏にもそれらしき文面が。↓
右の石碑は『大宰府碑』、左の石碑は『大宰府跡碑』。どちらも地域の人々によって建てられたものとのこと。↓
こちらの案内板には「大宰府政庁正殿跡」についての説明書きがあって↓
さっそく読んでみると↓
『正殿跡』。大宰府の長官である帥 (そち)が政務を執り儀礼や儀式などもっとも重要な役割を果たした場が『正殿』。残された礎石から、正面28.5m、奥行13.0mの平面規模が分かっています。基壇の正面と背後には3つの階段が取りつき、正面を除いた周囲の礎石には壁を設けるための加工が施されていました
また↓
建物は寄棟の大屋根と庇を別構造で組合せ、朱塗の柱と白壁で仕上げた外観、内部を吹き抜けホールのような空間にした建築だったことが想定できます
吹き抜けホール!!デザイナーズ住宅!!こちらは、添えられたイメージ図。↓
これが横に並ぶ正殿の礎石でしょうか。↓
※後日訪ねた大宰府展示館内に展示してある、↓
大宰府政庁の復元模型はこちら!↓
それから大宰府政庁の建物配置図はこんな具合。↓
さて。ここからさらに敷地の奥の奥へと進んでみると↓
敷地は思った以上に広くて、↓
ようやく敷地反対側の出入り口に辿り着くと、そこには、↓
「旧小字 大裏」。↓
その先の小さな通りの向かいには『日菅寺』の案内があって↓
入り口のところに説明書き。↓
読んでると↓
『日菅寺』は、目の前に広がる都府楼古跡の復元への願いと後ろにひかえる四王寺で繰り広げられた合戦の鎮魂のために建立されました。名前の由来は、福岡市博多区東公園にある日蓮上人像を建立された「佐野日菅上人」によって開山されたことによります
だそうです。(東公園日蓮上人像↓)
といったところで、これにて【大宰府政庁跡】散策はいったんおしまい。
また機会があったら訪ねてみたいです。
それでは皆様、良いお年を!!
【大宰府政庁跡】
福岡県太宰府市観世音寺4丁目6-1