虚子が愛用していた博多帯が埋まるなど【帯塚碑】

前回の続きです。

前回、彫刻家富永朝堂氏の旧宅があると聞きつけて、

ダッシュで大宰府政庁跡までやってきたのはいいけれど、

結局どこにあるのか分からずじまいで、なんとなくモヤッとしていたのでした。こんにちは。

なにか小さな手がかりでもないかしらと、隣接する大宰府展示館界隈を徘徊してみましたので、

今回はそのお話です。(※以前、大宰府展示館を訪ねたお話はこちらで!↓)

さて秋めく木立の中を、アンニュイな雰囲気で歩いていると、↓

おや「ヤマモモ」と書いてありますよ。

ヤマモモと言えば、西区の金武古墳群を訪ねた時に、「金武のヤマモモ」を探してみたことがあります。↓

また、須恵町の町木にはヤマモモが選ばれているんです。

そんなヤマモモが目の前に。これがヤマモモなのか。で、ヤマモモってなに?

詳細についてwikipedia「ヤマモモ」の項より参照させていただくと、

ヤマモモ科ヤマモモ属の常緑樹。夏に実る赤い果実は生食でき、甘酸っぱい独特の風味があり、ジャムや果実酒にも加工される。

別名として山桜桃、火実などがあり、古代から和歌などにも詠まれる。常緑広葉樹の大高木で、成木は樹高20メートルほどになる

続きます。↓

大気汚染に強く、緑化を目的とする植樹に用いられ、庭木や公園樹、街路樹として植えられる。葉が密生していることから、建物の風よけや目隠しに列植されることもある。

樹皮に含まれるタンニンには防腐、防水、防虫の効果があり、むかしは漁網を染めるのに用いた。また、樹皮は楊梅皮(ようばいひ)という生薬になって、タンニンに富むので止瀉作用がある。消炎作用もあるので筋肉痛や腰痛用の膏薬に配合されることもある

もう少し続きます。↓

高知県ではシイラ漬漁業に使うシイラ漬の下に葉が付いたヤマモモの枝を垂らし、隠れようとする小魚を誘き寄せ、小魚を目当てに集まってくるシイラを巻き網で捕る漁法に使われている

とのことでした。

では 大宰府展示館入り口へ向かいます。

通りから一歩入って、入り口そばまで来てみました。

正面に見える森?小山?が月山なのかな?と思いながら近づいてみると、

説明書きを発見。そして謎の小道も発見!なになに。

さっそく読んでみると、

俳句界を代表する高浜虚子が愛用した「博多帯」を埋めたことをあらわす碑。月山の脇に「花鳥山仏心寺」があります。この寺は「ホトトギス」同人の河野静雲が立てた寺で、高浜虚子を祀る虚子堂があり、俳句の道場にもなっていました

続きます。↓

虚子が愛用していた「博多帯」を静雲に託し、仏心寺のそばに埋めて欲しいと願ったことにより昭和29年に建立。大宰府政庁前の朱雀通りには虚子の句碑も。「夜 都府楼跡に佇む 天の川の下に 天智天皇と臣虚子と」

とありました。では小路をかきわけ中へ入ってみますね。

すると進んだ先に帯塚碑。↓

ちなみに!高浜虚子についてさくっとwikipedia「高浜虚子」の項から参照させていただくと、↓

明治・大正・昭和の日本の俳人・小説家。『ホトトギス』の理念となる「客観写生」「花鳥諷詠」を提唱したことでも知られる。

1歳上の河東碧梧桐と同級になり、彼を介して正岡子規に兄事し俳句を教わる。

子規の協力を得て、柳原極堂が松山で創刊した俳誌『ほとゝぎす(ホトトギス)』を引き継ぎ東京に移転、俳句だけでなく和歌、散文などを加えて俳句文芸誌として再出発し、夏目漱石などからも寄稿を受ける。

子規の没後、五七五調に囚われない新傾向俳句を唱えた碧梧桐に対して、虚子は1913年(大正2年)の俳壇復帰の理由として、俳句は伝統的な五七五調で詠まれるべきであると唱えた

続きます。↓

また、季語を重んじ平明で余韻があるべきだとし、客観写生を旨とすることを主張し、「守旧派」として碧梧桐と激しく対立した。

虚子は俳壇に君臨する存在であった。『ホトトギス』からは飯田蛇笏、水原秋桜子、山口誓子、中村草田男、川端茅舎、松本たかしなどを輩出している。

1959年(昭和34年)4月8日、鎌倉市由比ヶ浜の自宅で永眠。85歳没。

そんな人物なんだそうです(ざっくり)。

朱雀通りにあるという虚子の句碑も見に行ってきましたので、そちらもご報告。↓

では終わります。

【帯塚碑】

福岡県太宰府市観世音寺4丁目6-1