今日から地名は乙石ですから【結城兵部少輔之墓】
先日、福岡市西区の吉武地区にある『やよいの風公園』(↓)を訪ねたお話をしました。↓
ぐるり1周、公園散策を存分に楽しみ、そこからさらに通りを進んでみましたので、今回はそのお話をしたいです。こんにちは。
通りをずっと先へ進んでいくと
「金武」の交差点に出て、そこには『飯盛神社』や『吉武高木遺跡』の案内が立っている。
通りをこのままさらに進んでいくと↓
そこには、江戸時代に福岡と佐賀を結んだ『旧三瀬街道』そして『金武宿』があるらしく、とっても気になります。また別の機会に是非訪ねてみたい。
(※のちに訪ねたお話はこちらで!↓)
今回はといいますと、交差点を右へ曲がって【金武古墳群】へ向かってみようと思います。では出発!
しばらく続く緩やかな上り坂。↓
『かなたけの里』を過ぎてからも、もう少し進みます。↓
すると通り沿いに案内を発見。【金武古墳群】。ここを左へ進みなさいと言うている。分かりました分かりましたよと。↓
ヤマモト!?ヤマモモ!!↓
そのまま小路へ入っていくと↓
再び案内が出ており↓
その先に↓
祠と石碑が立っていました。
石碑には『結城兵部少輔之墓』とあって、↓
さらに細かい文字でつらつらっと文章が記されていましたので、なんとか読んでみたい。間違ってたら、優しく訂正して欲しいです。↓
結城兵部少輔は阿波の国の産なり。天文年中時の将軍足利義輝の勘気をこうむり当郡荒平城主民部少輔小田部鎮元をたより当郡に落ち来たる。小田部鎮元の情により金武山原に居住し地名を乙石と名付く。落去の時、生国より阿波島大明神を勧請し山神として祭り大日石仏をきざみ其の本地とす。又禅宗西山寺を建立して観世音菩薩を安置し奉り結城氏の菩提寺とす。今の観音堂の前身なり。兵部少輔天正中に死す。よりて子孫家臣等此の墓を建て今日に至るものにて乙石結城氏の祖として子孫の人々此の墓を守る。昭和五十三年墓石の風化甚だしき為子孫の人々相図りて、上屋及びこの碑を建立して後世に伝う。
こう書いてあると思う。これをざっくり解釈してみると↓
阿波の国とは、徳島県のこと。そこの生まれである結城兵部少輔は将軍に怒られちゃった。そこで荒平城主である民部少輔小田部鎮元を頼って都落ち。金武山原に住んで、地名を乙石と名付けたんよ。
よそに来て、いきなり勝手に土地の名を名づけたと。なんなんですかと。続きます。↓
「落去」とは、 問題が解決して騒ぎなどが静まること、の意だそう。つまり、身辺落ち着いたので「西山寺」を建立。これは観音堂の前身である
つまり西山寺はもうない!?観音堂というのは眼前にあるこちらの祠(お墓)のこと!?全てがナゾである。さてそれから↓
「天正」というのは元号のことでしょう。1573年から1592年。その頃結城兵部少輔死す。で子孫が墓を建てて碑を建立したりしたんだ
という感じ。どうですか!?きっともっと色々深い意味合いもありそうですが、詳細は知らないからさ。あとはみんなにお任せします。完。
で、肝心の古墳群はといいますと、多分田んぼのあの向こう。
それは次回にこっそりお話します。よろしくお願いします。↓
【結城兵部小輔之墓】
福岡市西区金武1636-2