叢が月を吐くように宝満山にのぼる月【富永朝堂旧宅】
前回の続きです。
前回、太宰府市文化ふれあい館にて、富永朝堂旧宅の存在を知ったのでした。こんにちは。
どうやらそんなに遠くない場所にあるっぽい。そこで、

さっそく向かってみたところ、その道すがらに、あのミステリアス稲子に出会ったというのがこれまでのあらすじとなります。

では引き続き、富永朝堂旧宅を目指してみたいと思います。

関屋の交差点を左へ曲がり、政庁通りに沿って真っ直ぐ進みますよ。

地図によれば、旧宅は大宰府政庁右隣りの小道を少し入った先にあるらしい。

そのままの通りに歩いていくと、

おや右手に案内板を発見。

読んでみるとこうありました。↓
月山東官衙。古代の役所「大宰府」に伴う官衙跡。奈良時代の建物群で周囲を柵に囲まれているなど他の官衙域にはない特徴が。この遺跡は大宰府政庁跡の東側の月山(築山)と関係が深い役所関係の施設と推定されます。また大伴旅人の館跡という説も
(※大伴旅人についてはこちらの記事と、↓)
(※こちらの記事も!↓)
続きます。↓
東西の長さ約112m、南北の長さ約71mの柵に囲まれた空間に9つの掘立柱建物が確認されています
とのこと。

では引き続き富永朝堂旧宅を探します。

左手にお寺「佛心寺」があって、その裏には「月山 伝漏刻跡」。そしてお寺の向かい辺りが富永朝堂旧宅らしいんだけど、

どこだろう。辺りは民家が続きます。

とりあえず「佛心寺」前を通り過ぎ、

そのまま突き当りまで歩いて階段を上ったところにはお堂が。筑紫四国第一・二番札所と記してあって、そしてここが月山?

うーん。なんだか良く分かりません。辺りの雰囲気はプライベート感たっぷり。あんまりウロウロするのもなんなのでさくっと立ち去ることにしたのでした。

ところで!

富永朝堂というお方、いったいどんな人物なのでしょう。

実はね、ここだけの話し。ふるさと館で配布されている資料を、こっそり持って帰ってきましたので、

みなさんと一緒にせいいっぱい大きな声で読んじゃっても!?

いいともー。↓
富永朝堂は昭和木彫界を代表する彫刻家。現冷泉町で生まれ、彫刻を学ぶべく家出をして上京。東京で朝堂が頼ったのは筑前琵琶奏者の橘智定。智定の義弟で彫刻家山崎朝雲に弟子入り
続きます。↓
入門5年目に「朝堂」の号をもらう。「老猿」「雪山の女」で確かな実力を示し、「白鷺」で一躍有名に。ニューヨーク万博博覧会へは日本代表として出陳
さらに続きます。
46歳で、激しさを増す戦火を避け太宰府へ疎開。政庁跡近くに住まいを移す。宝満山にのぼる月の姿が、まるで草むらが月を吐き出しているように見えたことから、アトリエを「吐月叢」と名付ける
もう少しだけ続きます。↓
「筑紫美術協会」を結成し初代会長に。昭和62年に人生を静かに終えました。太宰府天満宮の神牛像など作品は市内各所に点在。
とのこと。神牛像はこちら!↓

他にも太宰府市役所ロビーに「古都大宰府(朝堂監修)」などなど。

さて、このまま帰るのもモヤっとするじゃないですかあ!?結局旧宅見つけられなかったし。

そこで隣接する大宰府展示館周辺をぐるり訪ねてみて、なにかしらのヒントがないか探すことにしました。そしたら!!

そしたらさあ!!続きは次回に。よろしくお願いします。
(※追記202512)
書籍『博多歳時記 新がめ煮』には「月山 伝漏刻跡」についてこんなお話がありました。参照させていただきます(ありがとうございます)。↓
天智天皇の時代、「漏刻(水時計)」の制度を始めたと日本書紀に。筑紫のくにでは大宰府政庁に置かれた。旧跡は月山(古名は時つきやま)
【月山東地区官衙】
福岡県太宰府市観世音寺4丁目2


