謎の女稲子、二人の稲子はどっちも大変【稲子地蔵】

先日のこと、久しぶりに太宰府地区をぶらぶら散策し、そのままの勢いで『太宰府市文化ふれあい館』を訪ねたのでした。こんにちは。

館内では筑紫美術協会の展示が行われており、そのパンフレットをパラパラーっと見ていたら、「筑紫美術協会は1970年 富永朝堂を会長に発足」との説明書きがあったんです。

富永朝堂。うーん、どこかで聞いたことのあるようなお名前。どこで聞いたんだっけ。ぼんやり考えながら館をあとにして、

出てすぐのところに案内地図が立っていましたので、休憩がてらどれどれとか言って眺めてみることにしたんです。

 

そしたらさ、大宰府政庁すぐそばのところに『富永朝堂旧宅(吐月叢)』と記してあるのを発見!訪ねてみたい。いち早く訪ねたい。今日中に訪ねたいというわけで、

さっそく向かってみることにしました。

ふれあい館から続く坂道を小走りでぷりぷり下り終えると、

おや!?え!?目の前になにかのお堂が。なにこれ。

こちらは94番札所 地蔵菩薩堂 筑紫四国八十八ヶ所霊場なんだそうで、

すぐ隣には案内板も立っています。そこで、

久しぶりに真剣な眼差しで読んでみたら、あらまあ、なかなか面白いエピソードが記されていましたので、

皆さまにちょっぴりご紹介したいと思います。↓

日田街道を歩いてこの辺りまで来ると、今まで見えていた宝満山がこの小さな丘で急に見えなくなり、また2,3歩行くと元のように見えるのでいつしか「宝満隠し」と呼ばれるようになりました。この丘には次のようなお話が

(※日田街道についてはこちらの記事も!↓)

(※宝満山竈門神社についてはこちらの記事も!↓)

続きます。↓

二人の武士が、水城のあたりに宝満山を隠すような山があるかないかで、言い争いをしました。「その山がある」と主張した武士が相手をここまで連れてくると、やはり宝満山は小さな丘にさえぎられて見えませんでした

(※水城についてはこちらの記事も!↓)

続きます。↓

しかし相手は、宝満山を隠すほどの高い山のことを言っていたので納得せず、ついに果し合いの末、二人とも倒れてしまいました。人々は二人のために石碑を建て冥福を祈りました

というお話。ここで気になるのが、目撃者である第三者の存在。それを見届けた人(人々?)がいるからこそ、こうして残念なお話が伝わっているわけです。

果たして二人の喧嘩は止められなかったのか。武士Aの立場に立って考えれば、俺は高い山なんて一言も言ってないじゃんかと。ふざけんなと。

また、武士Bの立場で言わせてもらうと、山って言ったくせにこれ丘やん!!この嘘つき!!となる。

そんな噛みあわない二人のダメな様子を、第三者はぼんやり見ていただけなんですか!!仲裁してあげて!!お願い!!

ちなみに坂のすぐ後ろに見えている山は四王寺山で、

問題の宝満山はといいますと、地図で確認すればこんな位置関係。

つまり四王寺山のもう一つ向こう側に宝満山が聳えているという形になります。こっちの方角かな。

もう少し通りを進んだ先にはこんな景色。↓ といったところで、一つ目のお話はおしまい

このお堂にまつわるお話はあと2つもあるんです。では先ほどの説明書きの続きを読んでいきます。↓

宝満隠しの傍らにあるこの祠には「稲子地蔵」が祀られ、2つの言い伝えが残されています。ひとつは、刈萱関の関守であった加藤左衛門尉繁氏の身代わりになって敵刃に倒れた侍女の稲子を祀った地蔵という話

(※刈萱関について、そして加藤左衛門尉繁氏についてはこちらの記事で!↓)

稲子が身代わりになったストーリーとはいったいどんなお話なのか!気になります!!調べて分かり次第、緊急でお伝えしたいです。

それからもうひとつのお話はこう。↓

昔、稲子という女性が宝満山の山伏に恋をしました。しかし山伏の冷たい態度に悲観した稲子は遂に身を投げてしまいました。人々は哀れに思い、彼女の亡骸をせめて宝満山の見えない「宝満隠し」に葬り、「稲子地蔵」として祀りました

続きます。↓

なお、稲子地蔵の横にあった「宝満隠し」は昭和30年31年の造成で消滅しました

とのこと。丘はもうなくなってしまった。とにもかくにも、きれいに3段で落ちる3つのストーリー。

で、気になる点が一つ。2つ目と3つ目の稲子は同一人物ってことです!?身代わりで敵刃に倒れつつ、失恋で身投げしちゃった!?

まあ普通に考えれば別人なんだろうけど同じ名前。じゃあここは二人の稲子を祀った地蔵ということ?謎が謎を呼ぶ。ああミステリアス稲子。

といったところで「稲子地蔵」をあとに、富永朝堂旧宅へ向かうことにします。が、それはまた次回のお話に。

よろしくお願いします。

【稲子地蔵】

福岡県太宰府市国分3丁目10-1