追分は道が左右に分かれるところ【木造聖観音立像】
福岡日田線を福岡方面から太宰府方面へと進んで↓
山田4丁目の交差点の辺りで↓
通りをちょっとだけ住宅街へ入ったところに
お堂があって↓
【木造像聖観音立像】と記してあります。↓
さっそく説明書きを読んでみると↓
【木造像聖観音立像】は、高さ約60cmの檜の寄り木造りの観音像。頭には透かし彫りの冠、左手には花の開いてない蓮華。眉間と眼には水晶がはめこまれています。室町時代の様式で珍しい姿をしています
そして↓
観音像の胎内には「大仏所発心武蔵」「応永廿一年八月日むまのとし」の墨書があって、これは、1414年の室町時代を指しています。また、毎年「六月堂」と呼ばれる祭りが行われています
とのこと。
書籍『福岡県の仏像/アクロス福岡文化誌』には↓
かつてこのお堂は太宰府天満宮の主要路であった日田街道に面して構えていました
という記述があって、
(※日田街道のお話はこちらも是非!↑)
また『大野城市/わたしたちの文化財HP』(リンク切れ)には↓
こちらでは毎年「六月堂」という祭りが行われていたけれど、現在は地域のお祭りと一緒に行われています。その「六月堂」の起源には「鎮西上人の安産祈願」という伝説があるのです
という一文が。
その伝説については、こちら大野城市のHPから一部引用させていただきます。↓
鎌倉時代、筑前国善導寺(現久留米市)の鎮西上人は仏教伝導のため諸国をまわられていました。
雑餉隈の追分(道が左右に分かれるところ)のあたりで、寺を訪ね一夜の宿をお願いされました。和尚は快く引き受けました
そして夜も更けた頃、↓
裏の庫裏の方から苦しそうな女の人のうめき声と念仏の声が聞こえてきます。上人が尋ねられますと、坊守の妻が産み月になっているのに、難産のため苦しんでいるのです、とお答えしました。
上人が安産祈願をし、無事に玉のような赤ちゃんを産むことができました
そんな伝説なんですが、
お話の中に出てくる「六月堂」のことが良くわかりません。
和尚のお寺が「六月堂」ということなのか。女性の名前が「六月堂」なのか。生まれてくる赤ちゃんが「六月堂」になるのか。産まれた月が六月ってことなのか。
いったい「六月堂」とはなんなのか。なんだったのか。完。
(※「六月堂」のお話はこちらにヒントが!↓)
【木造聖観音立像】
福岡県大野城市雑餉隈町2丁目5-25