秘密は秘密のままでいい【興宗禅寺】【寺塚穴観音古墳】
福岡市南区の寺塚地区にある【興宗禅寺】を訪ねましたので、今回はそのお話です。
「野間大池」から続くゆるやかな上り坂を、爽やかな風のように疾走する私。こんにちは。↓
【興宗禅寺】は曹洞宗のお寺で、別名【穴観音】と呼ばれているんだそう。そして境内には古墳まであるとききました。↓
入り口そばに案内板がありましたので↓
さっそく読んでみたいと思います。↓
もともと寺塚地区一帯には多くの古墳があったけれど、福岡城築城の際に石垣として古墳の石が抜かれたため、ほとんどが壊滅したと伝えられます
そんな中なんとか残ったのがこちら【興宗禅寺】境内の古墳で↓
境内の古墳は、古墳時代後期(6世紀)の円墳で推定直径約20メートル。横穴式石室で巨石墳です。石室内には「阿弥陀如来」「勢至菩薩」「観音菩薩」が彫られていて『穴観音』として親しまれています
これが別名【穴観音】の由来ということみたい。
では、参道を通って↓
境内へ向かいます。山門をくぐると↓
【興宗禅寺】本堂。↓
奥には丘陵があって
その長い階段を上ると
拝殿っていうのか、休憩所みたいになってて。↓
その先に、墳丘がドンとあります。
案内板の通り、直径約20mの横穴式石室。1400年前(古墳時代後期)の円墳。↓
巨大な岩で造られているという石室。↓
中に入ってみるとこんな具合。
真っ暗闇の中、奥の方にぼんやりと3体の姿が現れます。↓
壁に刻まれているのは、中央が「阿弥陀如来」左が「観音菩薩」そして右が「勢至菩薩」。
彫られた詳細は不明。通路横の壁には「仁王像」の姿もありました。↓
穴の中の観音だから【穴観音】ということ。
ちなみに【興宗禅寺】の由来ですが↓
この寺塚一帯は百塚とよばれるくらい古墳がたくさんあったけど、1代目藩主の黒田長政による福岡城築城のため、古墳の多くが採石され潰されました。
そこへ、長政にお告げがあったとかなかったとかで【寺塚古墳】は供養のために残されたのです
それから2代目藩主黒田忠之の時代には↓
忠之によって拝屋が建てられましたが、のちに崩壊。1693年に拝屋を整備して、その下に寺を建てたのがこちら【興宗禅寺】となります
とのこと。また境内には『赤穂四十七士のお墓』もあって↓
こちらは昭和10年に篤志家が私財を投じて作ったものだそう。
東京の泉岳寺にある四十七士の墓をそっくり再現していて、毎年12月14日の討ち入りの日には『福岡義士祭』が行われているとききました。
それはさておき!!
こちらの【興宗禅寺】には、『福岡城』へと繋がる秘密の抜け道があるとかないとか!?そんなロマン溢れる言い伝えがあるらしいんです!!
ちなみに福岡城(↓)との位置関係は
こんな具合。↓
「抜け道」とか「隠れ家」とか「秘密基地」とか「古民家」とか、そういうパワーワード。
で、さらにさらに【興宗禅寺】にまつわるロマン寄りのお話があるんです。↓
1877年に起こった『福岡の変』(福岡藩士族の反政府暴動)の際、こちらの穴は士族たちの謀議の場として使われたというお話があるんだとか。
なんでわざわざここを選ぶのか。もっと謀議に適した場所はなかったのかな。
秘密めいたムード。それはつまりロマン。そういう理由もあって欲しい。
【興宗禅寺】
福岡市南区寺塚2丁目22-11