あえて地味でいく戦略もあろう【塔原塔跡】
前回の続きです。
前回、県道31号線(福岡筑紫野線)を福岡方面から筑紫野方面へ向かっていたら、その途中にふと案内板を発見したんです。↓
それは『杉塚廃寺跡』の案内板で
私は道に迷いながらも無事に訪問を果たしました。これが前回のあらすじ。↓
それからさらに、31号線を筑紫野方面へと向かってみると、通りの先に前回と似たような交差点が。↓
ここは、福岡県筑紫野市の塔原一号交差点。交差点には歩道橋がかかっていて↓
その歩道橋の橋脚のところに、こちらもまた、前回と似たような感じで案内板を発見。これはまるでデジャブ!!↓
それはともかく、まず案内板を読んでみたいと思います。↓
ここは【塔原塔跡】です。巨石は塔の心礎(心柱を据える礎石)で、近くに7世紀代の寺院があったことを裏付ける貴重な資料です。円形の穴の中心に段を持つ方形の舎利孔(釈迦の遺骨を納める穴)があるのが特徴。塔原の地名は、この礎石に由来
また、案内板には心柱と心礎の図があって、さらに心礎の写真も載っていますよ。↓
つまり、塔の心礎がこの辺りにあるということらしいんだけど、んーどうも見当たりません。↓
ふと、歩道橋にピンときた私。この歩道橋は「上から見て、探してみてね」という私へのメッセージ。↓
イエス。その挑戦、引き受けました!!ってことで、私は歩道橋に上ってみました。↓
31号を向こうへ進むと
『武蔵寺』とかがあって↓
反対のこっち側は、福岡方面へ続きます。↓
歩道橋を渡った先の通りの向かいは、ため池になっている。↓
でね、歩道橋の上から案内板がある方を眺めてみると、そこにはにやけたカップルがなんかやっていて↓
結局見つからないので、元いたカップルの場所へ戻ったら、こういうこと。つまりこれが↓
こう。↓
そしてあのにやけた顔も、心礎のありかを指し示す古代からのメッセージ。
さて。もう少し【塔原塔跡】について詳しく知るために、筑紫野市HPから参照させていただきます。↓
江戸時代、貝原益軒の『筑前国続風土記』には、この石が「塔原」という地名の由来になっていることが記されています。
塔心礎は、中心に2段になった方形の舎利孔があるのが特徴で、このような形式は、九州ではこの塔原塔跡と上坂廃寺(福岡県京都郡みやこ町)の2例だけ。
聖徳太子の伝記『上宮聖徳法王帝説』の裏書には、筑紫大宰帥の蘇我臣日向が、白雉5(654)年に孝徳天皇の冥福を祈って「般若寺」を建立したことが記されています。それがこの塔原廃寺のことではないかと考えられています。『筑紫野の指定文化財』より
とありました。また『古代日本の西の都』HPによりますと(参照します)↓
1966年の発掘調査によって、本来塔があった位置から動かされていることが分かっています。心礎の柱が座る彫り込みの大きさから、かなり大きな塔だったのでは
とのこと。それにしてもですよ↓
この状態は気づかんよ。カップルがトラップだわ。
【塔原塔跡】
福岡県筑紫野市塔原東3丁目14