俳号はほどよい感じがいい感じ【三宅酒壺洞】
先日のことなんですけど!!先日のことなんだが!!こんにちは。
福岡市博多区の大博町界隈を怪しく徘徊していたら
「流灌頂通り」と「ふれあい通り」が交わる通りの角に
なんだかいい感じの立派な木造家屋が立っており
え、これまじなんなの?と思って近づいてみたら
こんなことが書かれていたんです。
感電注意!じゃなくてこっちこっち。↓
読んでみると↓
1931年昭和六年大晦日。幼いえくぼで話しかけるよ
説明書きには↓
放浪の俳人山頭火、三宅酒壺洞氏宅で句会。三宅酒壺洞氏長女(5歳)のかわいいえくぼを詠む
とありました。山頭火とは種田山頭火のことですね。
家屋の反対側にも山頭火の句が貼り付けられていて↓
こちらには↓
1932年人のこ竹の子ぐいぐい伸びろ
そして説明書きには↓
放浪の俳人山頭火を物心ともに援助していた三宅酒壺洞氏の長男誕生を祝った句
とのこと。
まず、山頭火という人物についてwikipediaから引用してみますと↓
1882年(明治15年)12月3日 – 1940年(昭和15年)10月11日)。日本の自由律俳句の俳人。
山口県佐波郡(現在の防府市)生まれ。各地を放浪しながら1万2000余りの句を詠んだ
略歴については↓
1892年母が、父の芸者遊びなどを苦に自殺。放浪者としての山頭火を決定づける基因に。
1902年早稲田大学文学部に入学。1904年神経衰弱のため退学。帰郷。
1916年種田家破産。妻子と熊本県へ。古書店「雅楽多書房」を開業。額縁店「雅楽多」として再出発。弟二郎の自殺が山頭火を一層酒に向かわせることに。
1919年妻子を熊本に残し単身上京。
1923年熊本市内にある報恩禅寺に預けられ寺男となる。
1924年「耕畝」と改名。廃寺になっていた味取観音堂の堂守となる。
1925年寺を出て、雲水姿で西日本を中心に旅し句作を行い、旅先から『層雲』に投稿を続けた。
1939年愛媛県松山市に移住し「一草庵」を結庵。
1940年脳溢血のため一草庵で生涯を閉じた。享年57。墓所は防府市護国寺
そういえば以前、福岡市東区の名島地区を訪ねたとき、山頭火が1930年に名島へやってきたというお話がありました。↓
また、今回知った「えくぼの句」は1931年、そして「竹の子の句」は1932年に詠まれたとあります。上の年表と照らし合わせてみると、これらの句は西日本を旅している時に詠まれたみたい!?
さて、お次はもう一人の登場人物に関して。句会が開かれた家の主である三宅酒壺洞(しゅこどう)とはいったい!?なにもの。
書籍『種田山頭火/その境涯と魂の遍歴 大橋毅著』によりますと↓
本名は三宅安太郎、福岡市役所勤務
との記述がありました。句会を開いたり酒杯を交わしたりして山頭火を支えた人々のうちの一人、といったところなのかな。
ちなみに、山頭火の第一句集『鉢の子』の奥付には、発行所が「福岡市・三宅酒壺洞」とあるそうで
その発行所である三宅酒壺洞氏宅というのが、この木造家屋!?つまり山頭火の句が貼り付けてある立派なこちらのおうち!?っぽいけども。全然違ったらごめんだけども!!
他にもあれこれ山頭火にまつわる事象を調べていたら、ユーチューブに作家町田康氏による山頭火のお話がありましたので、こちらもご紹介させていただきつつ↓
おしまい。
(※三宅酒壺洞氏については書籍「福岡歴史探訪 南区城南区編/柳猛直著」にも記述がありましたので、一部参照させていただきます。ありがとうございます↓)
郷土史研究で知られる三宅安太郎。生家は大浜1丁目(大博町)の酒屋の老舗。仙厓(聖福寺の仙厓和尚)研究の第一人者
福岡市博多区大博町8