なんか怒りが限界突破してた【浄念寺】

先日、福岡市中央区の大手門地区に【浄念寺】を訪ねましたので、そのお話です。こんにちは。

昭和通りの通り沿いに山門があって↓

通りの向かいを見てみるとこんな感じ。↓

山門を過ぎて参道を進んだ先には本堂があって↓

境内には、石仏や石塔。↓

こちらは『餓死供養塔』。享保の大飢饉で亡くなった方を供養するとのこと。↓

また、書籍『福岡の戦争遺跡を歩く』によりますと、【浄念寺】境内には戦時中、大型防空壕が掘られていたとの記述がありました。

 

本堂そばにあるこちらの建築物は↓

空誉(くうよ)上人を祀る『空誉堂』で↓

堂の中には『空誉上人之塔』。隣りに由緒書きがありましたので↓

さっそく読んでみたいと思います。↓

空誉上人は明石の名僧。黒田如水(官兵衛)に従事し「合元寺」の開基となりました。そしてのちに「地福寺」を建立し開基となりました。「地福寺」には水鏡天満宮を勧請し、鎮守としました

ある時、そんな空誉上人に事件が起こります。

黒田家の重臣である後藤又兵衛基次が、福岡城から豊臣方(大阪城)へ去ってしまいました。

黒田藩は徳川幕府から疑いをかけられたため、又兵衛を召還させるべく「空誉上人」を派遣しました

ですが、説得は失敗に終わることに。

2代目藩主の黒田忠之は、これは「空誉上人」が又兵衛をそそのかしたに違いないとして、「地福寺」で上人を捕まえるや須崎の浜で背中を割き、そこへ熱鉛を流し込んで処刑したのです。

そして遺体はその場に捨て置かれました

その話を耳にしたのが【浄念寺】を開基した「桂空舜道上人」。

師弟である「桂空舜道上人」は、「空誉上人」の亡骸の引き取りを求めたが許されませんでした

そこで「桂空舜道上人」は↓

意を決して夜中に浜へ忍び込み、「空誉上人」を背中に背負って連れ帰り埋葬しました。藩からの追及も特になく月日が流れ、小さな祠を建てて皆で祀ったのでした。

「空誉上人」の処刑場所は、のちの県庁舎裏。時代を経たにも関わらず、舎内に霊夢を感じる人がいたので、そこに小さな祠を建てたのでした

碑に記載のある「県庁舎」というのは、現在の「天神中央公園」を指しています。ですので実際に「天神中央公園」を訪ねてみますと↓

公園園内の隅っこのところに(南側の噴水広場裏)↓

たしかに『福岡藩形場跡』の碑が建っています。↓

でもね、こちらの説明板には↓

ここはかつて福岡城の外濠だったから、仕置き場は違う場所かもしれないよ!?

みたいなことが書いてある。↓

そういえば、以前訪ねた唐人町の『枡木屋の獄』は

那珂川河口にあったものが唐人町へ移ったというお話でした。ひょっとして那珂川河口に、なにかヒントがあるのかな。↓

いずれにしても、ですよ。さすがに忠之は怒り過ぎじゃないかな。怒怒怒怒怒。処罰の仕方もやり過ぎ!!やば!!

そんな「空誉上人」にまつわるお話ですが、他にもいくつかあるらしく

例えばそれは、どうやら「安養院」という場所に関係があるらしいんです。が、そのお話はまたいつかどこかで。


【PR】アンガーマネジメント超入門

【浄念寺】

福岡市中央区大手門2-2-6

【天神中央公園】

福岡市中央区天神1丁目1