三つの山で三上山つまり今は一上山【鹿部山】
前回の続きです。↓
前回はといいますと、福岡県古賀市の美明地区に鎮座する『古賀皇石神社』を訪ね↓
それからそのままの勢いで小山を駆け上がり、↓
ついに私は星になったのであった。
うそうそ。あっという間に山頂へ辿り着いたのであった。↓
それでは今回も元気に頑張ります。↓
展望台のすぐそばには「鹿部山経筒の碑」という碑が立っており↓
説明書きもありましたので↓
さっそく読んでみると↓
鹿部山は、三つの峯を持つ山でしたが、花鶴丘団地の造成で東と中の二峯は削られて無くなりました。幸い、皇石宮のあるこの西の峯は残され、鹿部山公園として市民の憩いの場となっています
つまりここは鹿部山の西の峯。続きます。↓
造成前年の昭和46年、中の峯山頂付近経塚から、石の容器に入った経筒と青磁の合子や皿などが見つかりました。経筒は直径10センチ、高さ26センチの銅製有節鋳物で中の経典は炭化していました。年号によると永久元年(西暦1113年)つまり平安時代後期。当時この地が筑前国席内院(ムシロウチイン)に属し、峯も父々夫(チチブ)と呼ばれていた事が明らかとなりました
そのムシロウチインとは!?↓
席内院は、安楽寺(太宰府天満宮)の荘園。裏糟屋と宗像郡に跨った広い土地でした。父々夫が、江戸期の文書に、志々夫・鹿府とありますから、変化して鹿部となった様です。良意は太宰府・観世音寺の僧侶で、吉野常元の事は分っていません。当時青磁が大陸(宋)との交易品で、銅経筒も貴重品でしたから、相当の財力者だったと考えられます
父々夫→志々夫・鹿府→鹿部ということみたいですね。
(※観世音寺のお話はこちらで!↓)
経筒。↓
こちらは鹿部山(西)と向こうの山!!(中)と椿山(東)3つ峯合わせて三上山だったときの姿。↓
展望台から、説明書きに記述のあった「花鶴丘団地」を望む著者。↓
それでは下ります。↓
再び『皇石神社』境内を通って↓
古賀市未来に残したい巨木。↓
良い雰囲気。↓
下り終えたところから↓
ウロウロっとしていると↓
ん!?↓
そばへ寄ってみると『皇石神社沖の井戸』と記してあって↓
辺りに説明書きなんかもありませんでしたので↓
近くの人に聞いてみようと思ったけど、↓
そういう感じではなかったのでした。次回へ続きます。↓
【鹿部山】
福岡県古賀市美明1丁目19-1