唐津街道(一部)を辿ってみた02【青柳宿】

前回の続きです。↓

前回、【唐津街道】を辿ろうと思い立ち、そのスタート地点を【青柳宿】に決めました。そしてエイエイッと気合を入れて、福岡県古賀市の青柳町までやってきたのであった。

街道巡りの始まりです。どきどきが止まらない。

というわけで、今回は【青柳宿】をじっくりあれこれ見て廻りたいと思います。こんにちは。

さてこちらが【青柳宿】のスタート地点(便宜上)。なんですが、ちょっとだけ【青柳宿】の手前にあたる『畦道』のほうへ歩いてみたい。

街道入り口を背に、進行方向と逆に進むというわけです。返し縫いみたいな。↓

ちなみに前回参照した案内板によりますと

この通り界隈は(かつての)新町(今も!?)というらしく

そのまま真っ直ぐ行ったところに、『東構口』があったとききました。

 

この辺りかな。

ところで『構口』ってなに。案内板に詳細が説明されており↓

読んでみると↓

構口。宿場の出入り口を示すもの。道路と直角に石垣を組み、その上に白壁の練塀を築き、瓦を葺いたもの。街道の上りを東構口、下りを西構口といいます。青柳宿では西構口が一部復元されて残されています

また、目の前を横切る通りを左に曲がっていくと『畦道』へと続くようです。↓

それでは元の場所へと戻ります。

『東構口』から新町の通りを過ぎてスタート地点へ。(※東構口が実質的に言えばスタート地点なんですが、便宜上)↓

そのスタート地点のすぐ手前のところに、お堂とお地蔵さまの姿。↓

説明書きがありましたので↓

読んでみると↓

川原観音と為息庵。聖観音の立像は川原の福王に余ってあったものを藩主の令で青柳に移されたもの。本尊の聖観音は堂内の別の観音立像の体内に奉安されていることから別名(腹込の観世音)と呼ばれています

分かったような!?分からんような!?続きます。↓

その後庭園を築き草庵を営み為息庵と号し、求正玄了の二僧を住まわせて、新原浄土院の末庵にしました

そして↓

扁額は博多崇福寺の天庵和尚によるもの。明治時代に火災で観音堂も燃焼したけれど新築されました

(※崇福寺のお話はこちらでも!↓)

『為息庵跡』。確かに新築な感じがある。

 

新築過ぎるかもしれません。↓

ここに並ぶ立像のどちらかの体内に、『川原聖観音』が奉安されている、ということですよね。↓

では通りを渡って【青柳宿】入り口(便宜上)へ。↓

ああ素晴らしい【青柳宿】。↓

あっちが新町で、東構口そして『畦道』へと続く道。↓

いま一度案内板を確認して↓

【青柳宿】に関するお話を読みます。↓

唐津街道の宿駅の一つである青柳宿は慶長15年(1605)にお茶屋(大名が泊まる旅館)を中心に作られ、元禄初期(17世紀末)に街並みが完成。総延長444メートル。100軒前後の家々が軒を連ね、明治時代まで裏糟屋郡の中心地といて栄えました。これまで大火に見舞われました、現在は鍵の手形往還や西構口に宿場の面影をわずかに残します

「鍵の手形往還」が良く分かりませんが、気にせず先へ進みましょう。↓

先ほどの新町に続いて、ここは上町。↓

託乗寺があって、この辺りから横町に。↓

通りは右へカーブを描き、その角のところには現在『青柳醤油』があるんですが↓

先ほどの案内図によれば、かつてここには制札場(「高札」という藩からの伝達事項が掲げられた場所)があり、また御茶屋・町茶屋があったとのこと。↓

そのカーブを抜けてしばらくすると、石碑が立っている。この辺りが下町で↓

石碑を正面から見てみると↓

『太宰府神社道』、右側面には、明治二十六年と記してある。↓

ちなみに案内図では、この辺りに問屋(人馬の継立をしたところ。特に参勤交代では人足や馬の手配などの責任を負った)があったそうです。

さらに少しだけ進むと今度は石碑と案内板が。↓

正面から見るとこんな具合で↓

説明書きを読んでみると↓

唐津街道は長崎街道に対して内宿通りと呼ばれました。川原村の住民によって上町が、良仙寺の住民によって横町ができ、古屋敷の住民によって下町・仲脇が作られ本町が出来上がり、新町が加わって宿場が整いました

続きます。↓

長さ244軒(444メートル)。出入り口に構口が設けられ、現在西構口に石積みが残っています

こちらがその石積み。↓

もう少し続きます。↓

藩主が宿泊・休憩する御茶屋、また藩主の従者や武士が利用した町茶屋は上下2軒ありました

【青柳宿】全体図で↓

こっちは唐津街道の宿場町。↓

通りの向かいに『青柳村役場跡』。↓

といったところで、そろそろ【青柳宿】をあとに、次の目的地【箱崎】へ向かいます。

お話の続きはまた次回に!↓


【唐津街道青柳宿】

福岡県古賀市青柳町