西門は8世紀前半と8世紀中ごろ以降に建て替え【官道08】

前回の続きです。

前回、西門跡から鴻臚館までのびる官道西門ルートについて、

色々と情報を集めてみました。

今回はいよいよその道筋を辿ってみたいと思います。こんにちは。

ではまずスタート地点とする西門跡までひとっとび。エイッ

ッと。ここ西門については以前に訪ねたお話をしたことがあって、

久しぶりの西門訪問となります。では復習も兼ねて、

西門周りを散策しておきますね。

西門跡手前の所に説明書きがあって、

再度になりますが、チェックしておきます。

水城には東西それぞれに門があって、ここには西門がありました。水城西門と官道は大宰府と外国を結ぶ重要な施設でした。西門には、外国からの使節団を留めた鴻臚館から大宰府につながる官道(公的な直線道路)が通っていて、使節団はこの官道を通って大宰府に出入りしました

そして

外国使節の訪問が途絶えて以降は、官道としての必要性が低下し、次第に官道の側溝が埋まるなどしました。西門は廃絶した後も、少なくとも平安時代(12世紀頃)までは、水城の土塁を通り抜けるための道として使われました。その名残が左手に見える細い道

とのこと。西門と官道の図。↓

そして西門跡。↓

西門跡の調査結果。↓

読んでみると、こんな具合。↓

ここは西門の跡です。平成6-8年に九州歴史資料館によって西門の周囲が発掘調査され、西門が8世紀前半と8世紀中ごろ以降の2回建て替えられたことがわかりました。はじめは実戦に備えた簡素な門。3回目の門は見かけ重視。2階建ての楼門。外濠は見つかりませんでした。土塁西側の高台には望楼(見張り台)のような建物が見つかりました

とあって、こちらが水城の土塁。↓

ここにも説明書きが立っていますので、読んでみますね。

660年、わが国は百済を助けるため兵を送りましたが、663年、大敗を喫しました。敵兵が上陸し大宰府を攻めるのを守るため、664年に防御施設が造られました。それが水城

ではそろそろ出発しますか。前回の記事内情報から、西門の次の目印は『大利小学校』それから『大利中学校』となります。ではスタート。

住宅街を北へ向かって進んでいきます。↓

しばらくすると、目の前を大きな通りが横切っており、↓

これは『大利アンダーパス』というらしく、↓

ここから北西方面へと進むと、↓

以前訪ねた『上大利老松神社』が鎮座。

今回はそのままJRの線路に沿って北へ進みますよ。

しばらく真っ直ぐ進んだ先に、

『大利中学校』を示す案内が出ており、↓

こちらが『大利中学校』のグラウンド。

お隣には『大利小学校』のグラウンドも並びます。

ちなみにこの『大利中学校』それから『大利小学校』一帯の敷地は、かつての春日原米軍基地ベース跡でもあったとききました。

といったところで、今回はここまでです。続きは次回に。よろしくお願いします。

【水城西門跡】

福岡県太宰府市吉松3丁目16-12