筑紫通り東側一本裏に痕跡道が残る【官道03】

前回の続きです。

前回はといいますと、太宰府市国分地区にある東門跡界隈の説明書きで、東門のこと、それから官道について読み学び、

「次回はいよいよ東門ルートの官道を歩きます!」と声高らかに宣言したのでした。こんにちは。

だがしかし。ちょっと待ってください。

出発のその前に!ところで東門ルートってどんな感じ!?

前回までの私調査によりますと、東門ルートはここ東門跡から博多海岸へ向けて一直線にのびたという情報がまず一つ。

それから、東門ルートの道筋は日田街道とかなり被っている、という情報が一つ。この計二つのみが明らかになっています。

心もとない。やっぱもう少し詳しい道程知りたいじゃん!?というわけで、まずダッシュで図書館へ駆け込んで、こんな書籍を借りてみたのでした。

 

ででん。書籍『海路13号 古代官道と道の文化』。

この書籍内「道は大宰府に通ず」章によりますと(一部参照させていただきます。ありがとうございます)、↓

p84 水城西門道について、路面としての公的管理は8世紀後半には緩み、連続した通行帯としての機能は9世紀にはなくなっていたものと考えられており、大宰府と筑紫館(つくしのむろつみ、後の鴻臚館)を連絡する儀礼的な外交の道としての主要官道が、9世紀の段階ではすでに機能を失っていたことを示している

これは西門ルートのお話だけど、のちのち西門ルートも辿る予定ですので、ひとまずメモしておきます。

さらに今度は書籍『海路12号 九州の古代官道』からも、

一部参照させていただきます。ありがとうございます。↓

p15 水城の東門ルートとよばれる大宰府路上の福岡市板付遺跡

なるほど、東門ルートは板付遺跡を通過するらしい。(※板付遺跡のお話はこちらでも!↓)

続きます。こちらは西門ルートのお話。メモメモ。↓

p39 古代の博多湾は大宰府の外交で、そこに設置された施設が筑紫の鴻臚館。筑紫館が鴻臚館の前身とされ、大宰府の外交施設として、出入国管理・迎賓のほか、公益や防衛など多岐にわたる役割を担った。

西門ルートのお話、続きます。↓

p40 西門ルート。鴻臚館の所在地とした福岡城内から水城の西門を直線的に結ぶルートを想定、その途上にある駅を石瀬駅に比定。石瀬駅の場所は現在の南区三宅周辺に求める。西門の北側では大野城市池の上遺跡、さらに北側の春日公園遺跡、先の原遺跡などで遺構が確認。鴻臚館跡はこの延長線上に位置

そして、↓

p45 鴻臚館跡の立地する場所は南の「大休山」から博多湾に伸びる「福崎」と呼ばれた丘陵の先端にあたる。鴻臚館時代は、丘陵西側は「草ヶ江」の入江で、その対岸は「荒津山」に向かって砂洲が伸びていた

続きます。↓

鴻臚館廃絶後、貿易の拠点は博多遺跡群に移り、地区に居住した中国商人により交易が行われ、貿易都市博多の隆盛が始まる

歴史の流れとして、西門ルートの起点から東門ルートの起点へと交易の地が移ったと。なるほど。続きます。↓

p110 水城東門ルート(大宰府政庁、水城東門、山王公園、博多)。水城西門・東門バイパスルート(西鉄井尻駅、地禄神社、筒井の井戸、水城東門)

おや東門ルートは、板付遺跡付近を通ったあと、山王公園そばを通過するとありますよ。そして再び西門ルート(逆方向)のお話。↓

p111 水城西門ルートは鴻臚館から直線で大宰府の南西をかすめて次田の湯(二日市温泉)に向かい、ここで一泊、身を整えて、朱雀門から朱雀大路を北上、政庁に向かったのだろう

それから、↓

p113 水城西門ルートは高宮通りの西側、一本裏に痕跡道が残っており、東門ルートは筑紫通りのやはり東側一本裏に痕跡道が残っている

東門ルートは筑紫通りの東側一本裏に痕跡道が残るとの情報。西門ルートに関しては、↓

p113 西門ルートは警固断層沿い。痕跡道西側の宅地は崖状に一段高い。途中『石投げ地蔵』のあたりは垂直隆起状地で湧水もある。一休みしたことだろう

とありました。

2冊の書籍のお次に、今度は、『太宰府市の文化遺産巡りマップ』より一部参照させいただくと(ありがとうございます)、↓

東門を通る古代官道は博多と大宰府を16kmのほぼ直線で結んでいました。伝説では、道真公は博多から船で御笠川を上り、老松神社の渡し場で上陸。古代官道はやがて日田街道へ移り変わります。

続きます。次に西門ルートのお話。↓

外国使節は筑紫館を出て、まっすぐにのびた官道をすすみ、大宰府の入り口・水城にいたりました。そこから条坊の南西へとすすみ、条坊の真南(推定羅城門)から朱雀大路に入り、客館へ

とありました。

また、先ほど参照させていただいた書籍『海路』内にて、オススメ図書として『1300年前の高速道路』という本が紹介されていましたので、

こちらもさっそく借りて読んでみました。(一部参照させていただきます。ありがとうございます)。↓

まず、そもそもの官道についてはこういう記述があって、↓

大和朝廷は全国に駅路網を張り巡らし、情報の伝達に馬を走らせた。使者は駅家で馬を乗り換え走り続けた

続きます。↓

海岸線はずっと南で、鴻臚館は岬の上に隔離されていました。古代官道は赤坂小学校の真下を通って鴻臚館へ向かった

続きます。こちらは西門ルートのお話。↓

古代官道は大利小学校の校舎を横切り大利中学校のテニスコートをとおって、九大の筑紫キャンパスへ抜けていた。この一帯は湿地だったので、枝などを敷きその上に土を盛って直線に官道を造った。鴻臚館、博多と大宰府間には幅12mの直線道路が2本あった。東門ルート西門ルート

続きます。↓

駅家は16km間隔で馬家、宿泊、食事の施設等で構成。山王公園脇の直線道路は古代官道の跡と考えられる。博多駅周辺山王公園横の直線道路が古代官道(東門ルート)跡と考えられる。筑紫通り。西門ルートは高宮通り

もう少し続きます。↓

鴻臚館から大宰府に向かう直線道路は警固断層に沿っています。美野(よしの)駅→JR博多駅。久爾(くに)駅→博多区板付。石瀬(いわせ)駅→南区清水(石瀬橋)

美野(よしの)駅それから久爾(くに)駅。これは東門ルートを辿る上で大事なポイントですね。

といったところで、情報収集はひとまず終了。次回、いよいよ東門ルートを辿っていきたいと思います。マジマジ。

よろしくお願いします。

【水城東門跡】

福岡県太宰府市国分2丁目17