弥生人に見られているケース【板付遺跡 01/02】
先日、福岡市博多区の板付地区にある【板付遺跡】を訪ねましたので、今回はそのお話です。
とはいっても、これまでにも数回訪れたことがあって、
そして訪ねるたびにあれこれと写真を撮っているので、↓
当記事内の写真の時期はまちまちになります。ご了承ください。頼みます!↓
さて、福岡市博多区の諸岡地区から筑紫通りを御笠川方面へ入っていって↓
しばらくすると標識が出ており↓
そして通りの右手に案内板。↓
さっそく近づいて読んでみると、こんな記述がありました。↓
日本の米つくりは弥生時代前期に九州北部で始まったと言われていたけれど、昭和53年にこの地で行われた調査で、弥生時代前期の水田跡の下から日本最古の水田跡が発見され、米作りの始まりが縄文時代の終わりにさかのぼることになりました
こちらが図で↓
さらにイラストも。↓
この手前の道路が用水路であったということのよう!?
案内板のトイメンには、復元されたムラの入り口があるんだけれど↓
まずその前に、併設する資料館を訪ねてみたいと思います。ムラの脇のこの道も、かつて用水路だった場所のよう。↓
さて、あの左側に見えている、↓
デザイナーズマンションみたいなのが【板付遺跡弥生館】。しゃれてるう。↓
入り口そばの自販機もいい感じ。抜かりなし!
敷地奥には水田があって↓
そばの説明書きを読んでみると↓
こうありました。↓
姿を現した板付遺跡の水田は非常に完成度の高いものでした。水田の遺構はいく層にも重なって存在していました
構造としては、水田の隣に用水路(現在は小道)があって、その向こうにムラが見えるという形。↓
こちらにも案内板がありましたので↓
さっそく読んでみます。↓
御笠川と諸岡川に挟まれた台地を中心とした遺跡。日本の稲作開始時期の代表的な遺跡として知られています。完備された水田が引かれ、日本で最も早く稲作農耕が開始されていることが分かりました
そして↓
弥生時代前期末には有数の集落に発展。集落・墓地・生産地・水田が一体となって把握される数少ない遺跡です
とのこと。
さらに館の入り口前に模型があって、↓
こんな記述がありました。
昭和53年に発掘された弥生時代前期の水田を復元したものです。古代の人々は台地に沿って用水路を掘り、低地を畔で区画して水田に作り変えました
私が付けた赤丸の位置が、ざっくり弥生館の位置だと思うんですが、どうでしょう!?先ほどの用水路跡も確認できます。↓
といったところで、そろそろ入館のお時間。↓
イラストだとぐっと分かりやすいですね。↓
館内には板付遺跡に関する説明書きがたっぷり。どんどん参照していきたいと思います。↓
板付遺跡というのは、日本で最も古い水田が開かれた土地であり、また環濠と呼ばれる大きな溝で囲まれたムラ(環濠集落)が見つかった遺跡でもある。発掘されたものから考えると、稲作とともに高度な土木技術が朝鮮半島から伝わったことを示しています
そして貼られた説明書きには↓
こんな記述もありました。↓
縄文時代最後の遺跡であり弥生時代最初の遺跡である
他にも、大きなジオラマがあったり、↓
キャラクターの「いなほん」は稲穂だろうけど、「ゆぅにゃん」はなに!!??↓
見落としがちかもだけど、設置してある「なぜなにノート」も勉強になります。特に「板付人」というレポートが良かったです。↓
弥生人の足跡とか。↓
体験コーナーはお休みだったけど、存分に弥生館を満喫することが出来ました。次回はムラを訪ねてみることにします。↓
お話の続きはこちらから。よろしくお願いします。↓
【板付遺跡】
福岡市博多区板付3丁目21-1 板付遺跡弥生館