長崎街道(一部)を辿ってみた05【山家宿東構口】

前回の続きです。↓

前回、福岡県筑紫野市の『山家宿』西構口そばに掲げられた案内板を見て↓

へえ『山家宿』には見るべき史跡がたくさんあるなあ、と思ったのだった。こんにちは。↓

では続きます。構口を出てすぐのところに↓

シーボルトも宿泊したことがあるという『山家宿御茶屋』があって↓

左へ進むと、「桐山丹波」の墓所があるみたい。

そこでまず、交差する通りを左へ向かってみようと思います。

すぐのところに『山家宿下代屋敷跡』があって↓

こちらは

下代とは代官の下役。山家宿には5名の下代。下代屋敷が4軒

だそう。では先へ進みますね。

すると今度は『下代屋敷もやい井戸跡』。↓

 

こういう風になっている。↓

もやいってなによ。なになに。

下代屋敷4軒で使用した井戸。御茶屋の敷地内にあった

二手に分かれた分かれ道。右の方を進んでいきます。↓

しばらく坂道が続いたあと、再び案内が出ており↓

この先の一番奥のところに森っていうか山っていうか林っていうか。

振り返るとこんな景色。↓

鬱蒼とした木々の間を進んでいくと

奥のところにお墓と説明書きがありましたので

さっそく読んでみると↓

桐山丹波守墓所。黒田二十四騎の一人。関ヶ原の戦いの功により黒田家は筑前へ転封。桐山丹波守は御笠郡(筑紫野市太宰府市大野城市)の代官に

そして↓

山家宿のえびす石神背面銘文によると、桐山丹波守が山家宿を創造、初代代官

冷水峠の開通にも尽力した、との記述もありました。

では構口まで戻ります。えいっ

っと。右へ進むと、山家宿の宿場町。

こちらの細い道は『観音山円通院』へ続く道。のちほど訪ねたいと思います。

右へ進んだ先には『恵比寿石神像』があり↓

すぐ隣りには『山家宿中ん茶屋』。↓

中ん茶屋というのは↓

町茶屋の一つ。屋号は長崎屋。半官半民の旅籠で、伊能忠敬も宿泊

そのお隣には『山家宿郡屋跡入口』。↓

郡屋跡の郡屋というのは↓

参勤交代に係る打ち合わせや藩からの重要な伝達があったときの会議の場

なんだそうです。ではさっそく寄ってみましょう。↓

当時の宿場町全体の案内図があって↓

『郡屋跡』はずっと奥まで続きます。↓

見学に関する心得心構えがあって↓

読んでみると↓

山家宿郡屋跡。郡屋とはその郡内の村役人たちが集まって郡奉行の通達を受けたり、参勤交代の人馬役の打ち合わせなどをする施設で、主要な宿場に置かれていました

もう少し続きます。↓

敷地には郡屋のほか、郡屋守の役宅、土蔵などがあり、郡屋守が管理していました。明治維新で廃止に。郡屋本体は取り壊され、当時の建物の基礎だけが残っています

添えられた図。↓

そして灰屋。↓

土蔵。↓

こっちにも説明書き。↓

読んでみますね。↓

郡屋の付属施設。江戸時代の参勤交代の際、大名たちの旅支度品や街道の補修用具などを収納

つまるところ、郡屋は「界隈の心臓部」といった感じでしょう。遠い昔に解体されたけれど、残された建築物が、在りし日の歴史を雄弁に語っています。

 

さて今回はここまで。↓

次回は、先ほど通り過ぎた細い道を抜けて、『観音山円通院』を訪ねてみましょうよ。

お楽しみに!↓


【山家宿郡屋跡】

筑紫野市山家5161