博多文琳は日本半国の価値【神屋宋湛屋敷跡】
福岡市博多区。昭和通りを大博通りへ向かって歩いていたら↓
通りから一歩入ったところに、変わった2階だてのビルディングを見つけました。
いったい何事なんだろうと思っていると、そこには【豊国神社】と書いてあって↓
すぐそばには【神屋宋湛屋敷跡】と記してある石碑が立っていたんです。え待って?なに?どっち?こっち?そっち?↓
建物全体を指して、豊国神社かつ神屋宋湛の屋敷ということなのか、もしくは
この小さなスペースこそが神屋宋湛の屋敷だったということなのか!?
まずそもそもなんですが、私は神屋宋湛という人物を知らないんです。悲しみ。
ですので、さっそくwikipedia内神屋宋湛の項を参照したいと思います。↓
神屋宋湛は、天文20年(1551年)博多の豪商神屋家5代神屋紹策の子として誕生。 代々博多の貿易商人の家でした。
天正10年(1582年)5月、同じ博多の豪商島井宗室と共に上洛し、本能寺で再び信長と謁見し。そのまま本能寺に宿泊して本能寺の変に巻き込まれてしまいました。
島井宗室と交流がある!?(→誰か私に楢柴肩衝をください!!【島井宗室屋敷跡】)
「本能寺の変」に巻き込まれた際、宗湛は燃える本能寺から『遠浦帰帆図』を持ち出したのです。
さすが豪商、隙がありません。ちなみに島井宗室は、空海直筆の『千字文』を持ち出していたのだそうです。参照はもう少し続きます。↓
天正14年(1586年)に再度上洛。大徳寺にて出家し、宗湛と号しました。「筑紫の坊主」と呼ばれ、秀吉に気に入られました。
豪商としての特権を与えられてからは栄華を極め、秀吉の側近として活躍し莫大な富を蓄積した。
権力者への近づき方も、島井宗室と似ています。
しかし徳川家康からは冷遇されることに。黒田長政が福岡城を築城する際には、その財力において多大な貢献をしました。
のち神屋宋湛は、島井宗室の死去から20年後の寛永12年(1635年)に病死。墓所は福岡市の妙楽寺にあるとのこと。(→ういろうは食べる機会が少なくなくない【妙楽寺】)
ところで。こちらの【豊国神社】とはいったい何かといいますと↓
神屋宗湛は生前、豊臣秀吉の恩恵に大変感謝していて、彼の死後には自身の邸内に祠を建てて秀吉を祀りました。これを基に1886年に創建されたのが、こちらの【豊国神社】です。
と、そういうことなんだそうですよ。
【豊国神社】
福岡市博多区奈良屋町1-18