もし地獄に落ちたなら気を付けたいこと【海元寺】

福岡市博多区の千代地区にある『濡衣塚』(↓)から石堂橋を渡って御笠川を越えて

その先の『一行寺』(↓)の真向かいにあるのが

【海元寺】、別名「閻魔(えんま)寺」。

396年、大蓮社岌山徳公によって開山。のち慶長5年(1600)に、箱崎松原から現在の博多区中呉服町へ移されたとのこと。

そばの石堂橋欄干には、閻魔さまの見事なプレートが貼り付けてありました。↓

ところで、閻魔様っていったいなに?!悪人の舌を抜くとか抜かないとかいうお話は聞いたことがあるけど。

よくわかりませんので、さっそく調べてみました。↓

人は死んだあと、三途の川へ向かいます。するとそこにお婆さんが待ち構えている。奪衣婆(だつえば)という、衣服をはぎとるお婆さん。

そこではぎとられた衣服は、まず「懸衣翁(けんねおう)」の元へ届けられます。受け取った翁はそれを木の枝にかけ、そのしなり具合で罪の重さを測るのです。

重ければ重いほど枝はしなります

つまり、地獄には軽装で行くべきということ。アクセサリーとか重ね着とか絶対やばい。厚底靴なんて命とりですよ。(もう死んでるけど!!)↓

で、続きます。↓

計測が済み、明らかになった罪の重さは、ただちに閻魔さまへ報告されます。

閻魔さまは受けた報告の内容に従って、罪状を発表。その罪状によって私は、怒られたり叩かれたりとか火あぶりだとか、恐ろしい罰を加えられてしまいます。

ちなみにこの罰は、「十王」という仏の仮の姿によって行われ、罪が消えなければ再度責め苦が加えられるのだ!!

再度責め苦!!それはなんとか避けたい!!↓

といった具合。これが死んだ後のざっとした一連の流れになるみたい。

ちなみに堂の中にはガチャガチャが。それはつまり、我が人生に対するメタファー!?↓

それはさておき。こちら【海元寺】がどうして「閻魔寺」と呼ばれているのかと言いますと

 

こういうお話があるんだそうです。↓

かつて筑前の武士である蒲田九郎兵衛の槍持をしていた「源七」という男がいました。

源七は筑前から逃げ出して上方へ向かいます。そこで辻堂にあった閻魔像の首を盗んだのでした。

だけど、良心の呵責に耐えきれず出家をし「円心」と名乗りました。

そしてその首を筑前へ持ち帰り、海元寺に堂を建てて祀ったのでした

右側の観音堂には「観音様」、左側の閻魔堂には「閻魔様」。↓

1月と8月の16日(地獄の釜が開く日)には『えんま祭』が開かれて、こんにゃくを奪衣婆にお供えすることになっているとか。
(お供えの功徳で、母乳の出が良くなったり子どもの病気に効くことから)

また8月のお祭りでは、地獄の責め苦を描いた『十王図』が掲示されるとのこと。ああ責め苦は恐ろしい!!まじ勘弁。

境内には『山田子育て地蔵尊』や↓

『三界萬霊塔』もありました。↓

とにかく私が思ったこと、それは↓

責め苦を受けないように、できるだけ身軽を心がけたい!!です!!頼む!!

<参考書籍:福岡歴史がめ煮>


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【海元寺】

福岡市博多区中呉服町10-5