毎日大砲はマジで勘弁【波戸住吉神社】【午砲場跡】

福岡市中央区にある西公園(↓)から足を延ばし

港地区の「かもめ広場」の辺りを歩いていたら↓

(※かもめ広場のお話はこちらで!↓)

ふと小さな鳥居を見つけたんです。↓

さっそくそばへ近づいてみると、そこには石碑が建っていて『午砲場跡』と刻まれています。↓

ちなみに鳥居の後ろに見えているのは「福岡造船株式会社」なんだそう。↓

鳥居そばには案内板が。読んでみたいと思います。↓

荒戸山の下にある港の波戸は寛永2(1625)年に、2代藩主黒田忠之が船をつなぎとめるための舟入れを作ったのが始まり

荒戸山というのは西公園。では「波戸」っていうのはなんだろうと思って調べてみると、防波堤のことを「波戸」と言うみたい。波止場とかそういうことでしょうか。続きます。↓

その後、数度の改修・増築の末、享和元(1801)年に完成。翌年には【住吉神社】が勧請され、港の守護神として鎮座しています

航海安全のための神社のようです。

 

境内には力石があって↓

こちらは、福岡市のHP『福岡市の文化財』によりますと

【住吉神社】の力石は、境内の左側に台の上にのせて置かれている。境内右手には「奉獻 力石 掛目三拾六貫目」の銘がある力石が、石燈籠の基礎か中台を転用した基台に載せて置かれている

とのこと。

また案内板には『午砲場』に関する記述がありました。↓

明治31(1898)年、博多時間を解消し時間厳守の啓発のため、須崎の旧藩台場にて発砲開始。その後、西公園山腹に移設され、そこからさらにこの地に移されました。

港の端には午砲を入れる小屋が建てられていました

まず「博多時間」という言葉が分からないので調べてみますと↓

時間きっちりじゃなくて、ちょっとだけずらすみたいな

とあって、また「午砲」というのは「正午の大砲」ということだそう。とにもかくにも、この地での発砲はしばらくの期間続いたのでした。↓

昭和6(1931)年にサイレンにとって代わるまで正午の時報「ドン」は続きました

今でいう昼休みのチャイムのような役割。時間が来たから、ドンとぶっぱなすよっていう。豪快ですね。

 

福岡市中央区のサイト(リンク切れ)も参照してみると↓

明治21年、福岡に「号砲会社」が設立され、大砲を鳴らし正午を知らせるようになりました。大阪で100円で購入した大砲を洲崎のお台場(砲台)跡に据え、正午に大砲を打ち鳴らして時刻を知らせました

号砲会社!!須崎の砲台跡というのは現在の須崎公園の辺りらしいんだけど↓

痕跡は良くわかりませんでした。

近所から苦情が出たため洲崎から西公園に場所を移すことになりました。そこでもまた苦情が出たため、西公園のふもとに移動。

福岡市の補助金と市民の寄付金で運営されていましたが、経営困難となり、明治23年に中止になりました。明治25年からは市が鳴らし続けました

明治25年からは市が鳴らし続けました。市が鳴らし続けました…。どうしても、鳴らしたいから…。苦情とか良く分からないから…。

そして昭和6年(1931年)に、市庁舎屋上にサイレンが設置されたのでした

ちなみに実物の大砲は福岡市博物館に展示されているのだとか。

ちょっと思うんですけど、これ大砲じゃなくても良かったんじゃない。花火とかそういうので。どっちもどっち!?終わり。


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【波戸住吉神社】【午砲場跡】

福岡市中央区港3丁目3-13

【須崎台場跡】

福岡市中央区天神5丁目2 須崎公園