鎮西上人霊蹟そして両烈士自刃の碑【油山観音02】
前回の続きです。↓
前回、ようやっと『油山観音』の山門をくぐり、
それから足を踏み入れてすぐのところに、こんな案内が出ていたのでした。「長島 寺尾 両烈士 自刃の碑」。
こちらはなにかというと、前回の記事で知った、青年二人を哀悼する碑のことで↓
今回さっそく、案内に導かれてその碑を訪ねてみました、のお話をしたいと思います。↓
案内通りに山道を歩いていくと↓
しばらく先に、再び案内が出ており、そして↓
その少し手前のところに、なんともドでかい碑が立っているではありませんか。↓
え待って!?とか言ってさっそく寄って見てみると↓
この大きな碑には『鎮西上人霊蹟』と刻まれています。碑のそばには説明書きもあって、↓
こちらの説明書きは、前回記事内で読んだものと全く同じ内容。そう鎮西上人の略歴のお話。↓
ですので、今回は短く引用しておきますね。↓
鎮西上人は筑前の国香月の庄(北九州市)出身。比叡山で修学の後、30才で油山学頭に。浄土宗大本山善導寺をはじめ48ヶ寺を建て、嘉禎4年(1238)入滅
といった具合。大きな碑の裏側へ廻ってみたけれど、そこに刻まれた文字は残念ながら読むことが出来ませんでした。↓
また碑の脇にもう一つ説明書きがあって、↓
そちらにはこんなお話がありました。↓
鎮西国師学生寮(油山十六景)。鎮西国師は学徳兼備の聖であり、師が建久2年(1191)に来山し学問所を建てた跡といわれています。その跡に記念碑が建てられています
油山十六景!富嶽三十六景みたい。それはさておき、
そろそろ『鎮西上人霊蹟』をあとにして、再び『自刃の碑』を目指すことにしましょう。↓
途中で山道は枝分かれ。右へ行けば「油谷」へ、もう一方の道は「山頂」に向かうみたい。肝心の「自刃の碑」は左方向とのことなので↓
そのまま左へ進んでいくと、ひらけたスペースの中にこちらも大きな碑が立っています。↓
そして足元にある石碑に説明書きがズラズラっと刻まれており、↓
なんとか頑張って読んでみましたので、聞いて下さい。おおよそこういった感じです。↓
昭和20年8月15日、大東亜戦争終戦の大詔下るや、海軍技術中佐長島秀雄、海軍少尉寺尾博之は、この地に於いて割腹自刃。長島氏は埼玉出身。東京文理科大学卒業。39歳。寺尾氏は京都市出身。東京帝国大学農学部に進学。25歳
そんな碑を正面から見てみる。
さらに裏側からも失礼します。↓
シンと静かな森の中。思いがけない出あいとなりました。ありがとうございました。さて、さてさて。
ところでなんですけど。先ほど見かけた、あの枝分かれの案内に「油谷」なる名前があったでしょう。そう、「油谷」とはなんぞやと。↓
油山の油谷?気になって仕方ありません。せっかくですのでちょっと見に寄ってみましょう。↓
そのまま引き続き山道を歩いていきます。↓
すると道は急斜面の下り坂に。↓
ここが「油谷」なのかな。名前から勝手に推測するならば、かつてこの谷に椿が群生していたということ!?
このまま谷をずっと下っていって、どこだか知らない場所へ辿り着くのも困ります。そこで今回は、↓
この辺りでいったん引き返すことにします。「油谷」の謎についてはまた別の機会を待ちたい。↓
というわけで、山門前までひとっとびで戻りますよ。エイッ。↓
次回はいよいよ『油山観音』境内へと向かいます。よろしくお願いします。↓
【油山観音】
福岡市城南区東油山508