魚鱗の陣形は背後が弱点【多々良浜古戦場跡】
福岡市東区の百年橋通り、の松島交差点を
北西へ進んでいくと
右手に福岡市流通センター西口があって↓
この辺りは倉庫街というのか知らないけど、とにかくたくさんのトラックが頻繁に行き来しており
その西口すぐそばには、博多湾へと続いていく「多々良川」がとうとうと流れているのであった。
そんな地区の一角に、そっと佇むように立っているのが『多々良浜古戦場跡』の碑。
古戦場跡ということは、つまりこの近辺で『多々良浜の合戦』が繰り広げられた、というわけで↓
どういうことかさっそく調べてみると、『多々良浜の合戦』と呼ばれるものには「南北朝時代」のものと「戦国時代」のものと2つがあるらしく
今回は「南北朝時代」のほうのお話をしたいです。こんにちは。
さて、合戦の主役は「後醍醐天皇(天皇方)」と「足利尊氏(武家方)」。その戦の進展はこんな具合。↓
建武の新政後、「足利尊氏」は「後醍醐天皇」に反旗を翻します
ですが↓
「足利尊氏」は、天皇方である「楠木正成」「北畠顕家」に京都で敗れ、態勢を整えるべく九州へ逃れることに。
その際、長門国赤間関(山口県下関市)にて、肥前の「少弐頼尚」に迎えいれられました
一方「尊氏」に対する「天皇方」には↓
肥後の「菊池武敏」ら数多くの九州豪族たちがついたのでした
この時点で、武家方と天皇方との間には、圧倒的な兵数の差があったといいます。そして↓
「菊池氏ら(天皇方)」は、少弐氏の本拠地である太宰府を襲撃。「少弐頼尚」の父「貞経(武家方)」を陥落し、貞経は自害
一方の「足利尊氏(武家方)」はといいますと
「宗像氏範」の支援を受け、宗像から香椎を経て多々良浜右岸の高台に陣を構えました。(この辺り!?)↑
(※のちに高台を訪ねたお話はこちらで!↑)
それに対して「菊池氏側(天皇方)」の方はというと、太宰府から駆け上がり、南筥崎の地に陣を構えたのでした。
両者が多々良川をはさんでメンチを切り合っている。↓
でもね、この時点で尊氏軍は非常に不利。兵力の差が尋常じゃない。敗け確。そんな戦局を、川沿いの高台から眺める尊氏。
そして、弱気な兄の尊氏に発破をかけ、気合を注入し続ける弟の直義。こうして戦いは始まったのでした。
で、戦果はといいますと、
菊池氏側についた豪族が寝返ったりだとか、神風が尊氏側に吹いただとか、直義による魚鱗の陣形が功を奏しただとか、とかとか↓
諸説もろもろある中で、激戦の末に「尊氏側(武家方)」が「菊池武敏ら(天皇方)」に勝って戦いはその幕を下ろしたのでした。
この勝利で勢いを取り戻した尊氏は、再び京都へ向かい↓
『湊川の決戦』で「楠木正成」を破って室町幕府を樹立した、というのが歴史の流れらしいです。
こちらは【古戦場跡】石碑のそばにある『兜塚』で↓
数千に及ぶという合戦の死者を弔うもの。↓
読んでみると、こんな具合。↓
この地は古来、花園の森と呼ばれていました。多々良浜の戦いでは、季節柄の春嵐や水軍松浦党の謀反などにより尊氏が勝利。その後、この地は様変わりしたけれど、兜塚の故地には一本の桜
花園の森というのは↓
桜の森。
【多々良浜古戦場跡】
福岡市東区多の津1丁目20
【兜塚】
福岡市東区多の津1丁目1