大平寺は大きな禅寺そしてそれは幻【大平寺跡】
前回の続きです。
前回、福岡市南区の大平寺地区に延びるわりと急な坂道を上って、鬱蒼とした森の中にある『大平寺古墳群』を訪ねました。こんにちは。
その急な坂道を上る手前のところには小さな公園があって、その名は『大平寺東公園』。今回はこちらを訪ねたお話です。↓
園内に案内板が立っていましたので↓
さっそく近づいて読んでみるんですが↓
案内板と一緒に、福岡市のウェブサイト『福岡市の文化財』の「大平寺跡」の項からも参照させていただきます。↓
福岡藩の儒学者「貝原益軒」の著書『筑前国続風土記』には、
【大平寺】に関して「桧原村の内にて橿(柏)原の境にある禅寺なりしとやか今に其跡残れり。那珂郡屋形原(南区)に居たる千葉探題の帰依の寺なりし故むかしは大寺なりしとやか。」
という記述があります
記述はあるんだけれど、研究によれば↓
九州探題に千葉氏は存在しません。おそらくこの地を勢力下にいれた武士が、探題を自称したのでしょう
だとか、はたまた↓
この著書(筑前国続風土記)の他に【大平寺】の創建を示す史料や伝承はなく、遺構も残っていない。現在は、住宅地に囲まれた「大平寺東公園」の一角に、室町時代の阿弥陀如来の石仏と板碑が祀られています
とのこと。(以上が参照です)
ちなみに記述内にある「九州探題」とはなんなのか。
wikipediaの「九州探題」の項には↓
室町幕府の軍事的出先機関のこと
とありました。ここでいったん情報をまとめてみます。まず貝原益軒による『筑前国続風土記』内の【大平寺】の記述というのは、こう。↓
室町時代に、役職を騙った(と思われる)武士が、桧原村柏原に禅寺を建てた(と思われる)。その大寺の跡のみが、今(江戸時代)も残っている
ということ。これは江戸時代時点での記述。そして現在はといいますと↓
【大平寺】に関するお話はその記述のみであり、遺構や他の資料は見つかっていません。ただ地名に寺の名が刻まれているのみ
と、こういうふうに私は理解しました。
そんな園内の奥には「観音堂」があって、↓
こちらに阿弥陀如来の石仏と板碑。↓
結局大平寺とはなんだったのか。↓
幻に消えた柏原の廃寺。
【大平寺跡】
福岡市南区大平寺1丁目21(大平寺東公園)