長崎街道(一部)を辿ってみた06【山家宿】

前回の続きです。こんにちは。↓

前回、福岡県筑紫野市にある『山家宿』西構口をあとにして、その足で周辺の史跡や『郡屋跡』を見学しました。↓

今回も引き続き、元気いっぱい夢いっぱい、楽しく散策していきたいと思います。さて『郡屋跡』からそのまま通りを真っ直ぐ進むと↓

『山家宿下茶屋跡』があって↓

こちらは↓

山家宿にあった町茶屋の一軒。屋号を薩摩屋。代々山田家が茶屋守

とのこと。↓

そこから77号の通りに沿って「JR山家駅」の方へ向かって歩いていくと、

通りの左に「山家郵便局」。↓

その入り口前に説明書きがありましたので

読んでみますね。↓

山家郵便取扱所(現山家郵便局)。九州郵便、長崎街道に始まる。明治4年12月開局

むむ。九州の「郵便」はこの地から始まったよ、ということが書かれています。

 

また、通りの向かいを見てみると↓

そこには『山家宿問屋跡』があって↓

こちらは↓

正式名称は人馬継所。宿場の社会的機能は、物資輸送の他、大名等公用貨客の輸送

だそうです。といったところで、通り沿いの散策はおしまい。そしてここでいったん、

 

前回に通り過ぎた細い路地まで戻ることにします。というのも、あちらが『長崎街道』の本筋なんですから。ではいきますよ。エイッ

ッと。ここから路地を抜けて、さらに街道を進んでいくわけですが、↓

ちょうど路地を通り抜けたところに、案内の碑が立っている。

そしてその碑には『杉山茂丸寓居碑』と記してあります。ちなみに、杉山茂丸というのはドグラマグラで知られる作家夢野久作のお父さんで、

説明書きによりますと

茂丸は明治中期から国事に奔走。日本興業銀行創設。九州鉄道事業等にも関わった

とのこと。路地を抜けた正面には『観音山円通院』へと続く階段が上へ上へとのびています。なかなかの急傾斜。

腰・膝・肩・関節と、色々心配なお年頃ですが、力を振り絞って頑張ります!

境内の雰囲気。

本堂。

『山家小学校初代校長の碑』。↓

「山家史跡案内図」の説明書きには↓

天台宗寺門派寺院。慶長飢饉の餓死者の大施餓鬼供養が毎年行われている

とありました。では再び街道へ戻ります。↓

さらに小道を先へ歩いていると、

ふと、通り沿いのこんな激熱メッセージに励まされたりしながら↓

再び77号の通りに合流します。すると↓

その先の信号すぐそばの左手に、↓

なにやら色々並んでいる雰囲気がぷんぷんである。↓

さっそくそばへ寄ってみると、まず『長屋門跡』があって↓

なぜか説明書きが微妙に離れたところにあるので↓

つま先立ちでふんばって読んでみると、↓

山家宿大庄屋役宅跡。ここは山家宿大庄屋に就任した近藤弥九郎の役宅跡。大庄屋とは江戸時代に触(郡を2つか3つに区分した行政区)を管理していた役人。各村への年貢の割当てや納入、土木工事、参勤交代の人馬役など広範に渡り村政にかかわっていました

続きます。↓

役宅の東隣りには山家宿の入り口を表す構口があり、長屋門は昭和5年まで山家郵便局として使われていました

説明書きに添えられた当時の長屋門の姿。↓

そのすぐ隣りには

『恵比寿石像(新町)』。

こちらは↓

山家宿の商家や旅籠で恵比寿講が作られました

という説明があり、そしてもう一つのこっちは↓

『一字一石法華塔』。

原采蘋と水城正蔵の恩義に報いるため建立

思わせぶり!!二人いや三人の間にいったいなにがあったのか。なんの恩義があるのか。そこまで教えて欲しかった。

最後は『山家宿』の東構口。つまり、ここで山家の宿場町はおしまいということ。↓

『長崎街道』は『山家』の宿場町を抜けると今度は『内野宿』へ向けての旅路が始まります。ですが、我々の旅路はここ『山家宿』まで。

過ぎゆく旅人よ、さようなら。そして今回のお話はここまでです。

次回、もう少しだけ『長崎街道』を『内野宿』方面へ進んでみて、それから、とある場所を訪ねてから↓

いよいよグランドフィナーレを迎えます。迎えたい。よろしくお願いします。↓


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【山家郵便局】

福岡県筑紫野市山家5176-2