大山の峰の岩根に埋めた我が年月の大和魂【久留米07】

前回の続きです。

前回、福岡県久留米市に鎮座する【水天宮】鳥居前までやってきて、

筑後川の河童伝説に想いを馳せていたのだった。こんにちは。

今回は境内へお邪魔して【水天宮】の歴史を感じたいと思います。

まず下準備として、書籍『古地図で歩く福岡/月刊はかた編集室』より、

【水天宮】の箇所を参照させていただくと(ありがとうございます)、↓

各地にある水天宮の総社。12世紀終わりに創建といわれる。勤王志士の真木和泉はこの水天宮の宮司で、境内にはその像と真木神社がある。江戸時代、9代目藩主有馬頼徳が江戸の久留米藩邸に分霊した社が現在の日本橋蛎殻町にある水天宮のはじまり

ちなみにこちらは分霊された東京『日本橋水天宮』界隈。↓

また書籍『21世紀の民俗学/畑中章宏著』内「薬師如来とガルパンの聖地」にも

【水天宮】にまつわるお話があって一部参照させていただくと(ありがとうございます)

頼徳は江戸三田の屋敷内に分霊。明治に有馬家屋敷移転に伴って青山へ、さらに蛎殻町へ移る

というお話も。さらに書籍『福岡県の神社/アクロス福岡文化誌』によりますと、↓

壇ノ浦の戦いの後、官女の按察使・伊勢局が当地に逃れ来て、安徳天皇始め建礼門院、二位の天などの霊を筑後川のほとり(伝・鷺野原)に鎮祭したことに始まる

また

元来、水天宮信仰は、筑後川水系の水神信仰が母体。春大祭には御座船に神輿を安置して船上で祭典が行われる

とありました。

では境内へ失礼します。

境内入ってすぐ、右奥に見えるのが↓

『戦艦千歳慰霊の碑』。↓

航空母艦千歳のプレート。↓

こちらの説明書きによりますと↓

かつて300年前、筑後川は千歳川と呼ばれていたんだそう。↓

そのまま先へ進んだところには、↓

『真木神社』が鎮座。↓

そばに由来書きがありましたので、↓

読んでみると↓

ご祭神の真木和泉守保臣命は、当水天宮22代の大宮司で、倒幕明治維新の中心的指導者として活躍。禁門の変において殉ぜられた

とのこと。拝殿。↓

遷座の碑。↓

ここ【水天宮】境内にはあちらこちらに歴史的な碑が立っており、↓

あの向こうに見えるのは、最初に訪れた大きな鳥居。↓

『真木和泉守像』。↓

その隣りには説明書き。↓

読んでみるとこうありました。↓

真木和泉守保臣は明治維新の中心的指導者。水天宮神職の家に生まれる。藩政改革を企て、諸国の志士から「今楠公」と謳われる。久留米藩医学館生みの親とも言われる

続きます。↓

長州藩とともに倒幕の軍を起こし禁門の変に敗れ同志と天王山に登り辞世の和歌を残して自刃

その和歌は、↓

大山の 峰の岩根に 埋めにけり 我が年月の 大和魂

隣に立つこの建物は、山梔窩(復元)というらしく、

こちらにも説明書きがありましたので、

読んでみます。↓

山梔窩。真木和泉守先生は久留米藩を改革しようとするも水田村に謹慎を命ぜられた。庭の隅に小さな家を建て、山梔窩と名付けて師弟を教育

続きます。↓

平野國臣らの来訪もあり、尊王倒幕の一大策源地となった。十年ののちに脱出、明治維新を目指し活躍

とのこと。(※平野國臣のお話はこちらでも!↓)

では先へ進みましょう。↓

池のそばに【水天宮】の説明書き。↓

もちろん読みます。↓

ご祭神は「安徳天皇」「建礼門院」「二位の尼」「天之御中主神」。壇ノ浦の合戦のあと、女官按察使局伊勢(のち千代)が筑後川鷺野に逃れて始めて水天宮を祀る。その後移転。有馬忠頼公が現在の所に遷し奉る

続きます。↓

子どもの守護神として、春大祭に子どもを参拝せしめる習慣がある。当社は名社にして全国水天宮の総本営。かつて水上母艦千歳の守護神として分霊を奉斉せられたことも当時の誇り

もう少し続きます。↓

境内には真木和泉守保臣の命を祀る真木神社、水天宮創建者按察使局伊勢を祀る千代松神社がある。河童発祥地としても有名

とありました。河童発祥の地!!今回はここまで。お話はまた次回に続きます。

 

よろしくお願いします。


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【水天宮】

福岡県久留米市瀬下町265-1