逆に言えば弥生人も見られている【板付遺跡 02/02】
前回の続きです。↓
前回、福岡市博多区にある【板付遺跡】を訪ね、遺跡に併設する『板付遺跡弥生館』であれこれ展示物を見て感動し、
さらに、「いなほん」そして「ゆぅにゃん」という大切な二人との出会いもあり↓
「弥生館」を存分に満喫しました、というのが前回のお話。今回は復元されたムラを訪ねてみたいと思います。↓
ムラがあるのは、そばの小道(旧水路)を越えたすぐ隣。こちらが入り口です。↓
車で入るなんてもってのほか!!↓
これはなんだろう。弥生時代そのものを具象化したもの!?↓
ちなみにですけど、お弁当についているやつの正式名称は「ランチャーム」というんだそうです。(「籾」という作品だと教えていただきました)↓
それではお邪魔します。↓
入り口すぐのところに説明書きがありましたので↓
読んでみます。↓
板付遺跡は、縄文時代後期から弥生時代にかけて営まれた集落遺跡。二重の環濠に囲まれた集落と水田跡で形成されています。出土した土器によって、日本最古の稲作集落であったことがわかりました
こういう位置関係。↓
入り口で↓
周囲に濠。↓
前回に訪れた『弥生館』に置いてあった「なぜなにノート」には、こんな記述がありましたので↓
参照してみると↓
ムラの周りには深い溝があって、長い方の直径は約108m、短い方は約80mあります。溝が切れている箇所は入り口だったのでしょう。溝の断面はV字型で、深さ3m幅6mとされています
そして
濠に取り囲まれたムラを環濠集落と呼びます。なぜ深い溝が必要だったのか。敵から守る、区画する。詳しいことはまだ分かっていません
また、ムラの中にもさらに説明書きが立っていて↓
こう記されていました。↓
板付遺跡の環濠集落は弥生時代前期のものです。環濠の両側には土塁をめぐらしています。半月形に区画されている場所は貯蔵穴。住居跡は確認できておらず、竪穴住居を復元しました
とのこと。↓
ほのぼの。↓
濠はこういうシステム。↓
ムラ内には「子どもたちの墓」があったり。↓
方向的にこの辺りかな。↓
また、さきほど説明があった貯蔵穴は↓
ここらへんでしょうか?↓
再現された「ムラ」から『弥生館』のある方を、真剣な眼差しで眺める著者。↓
さらに公園奥隅のところには↓
ムラ長たちのお墓もありました。↓
完。
【板付遺跡】
福岡市博多区板付3丁目21-1 板付遺跡弥生館