石碑も橋の一部だったという可能性【稲光弥平顕彰の碑 】
今回は福岡市中央区の西鉄薬院駅からスタート!商業施設「キャナルシティ」の方へ向かって東へ進みます。
「柳橋連合市場」を通り過ぎたら↓
やなぎ橋の手前から↓
左に折れて、細い道へ入っていきます。↓
ちょうど「住吉橋通り」の辺りで私は↓
【住吉橋】の袂に、なんだかうすらでかい石碑を見つけたのであった。こんにちは。↓
気になって近くへ寄ってみると、そばには案内板がありましたので↓
読んでみるとこんな具合。↓
江戸時代末の天保弘化年間(1830-1847)、那珂川にかかる【住吉橋】は洪水のたびに流失していました
(【住吉橋】というのは住吉と春吉の間に架かっている橋で『住吉神社』の参宮橋でもあります)
さて、そんな災難続きの中に彗星のごとくあらわれたのが、春吉の豪農であった「稲光弥平」なる人物。
安政2年(1855)、私財を費やして川の中央に人工の島を築き、その上に橋を架けて水害を防ぐことに成功しました。
この石碑は、中の島の地中に埋められていたものが、昭和5年(1930)頃、橋の架け替え工事の際に偶然発見されました。弥平の功績を顕彰するため、現在地に設置されることになったのである
とのこと。また、福岡市中央区のHPを参照してみますと(リンク切れ)↓
春吉の篤農家であった稲光弥平は川の真ん中に人工島を造って、流水を二分すれば水流が弱くなると考え、住吉と春吉の両岸より人工島に橋を架けました
そして
その功績により、福岡藩11代藩主黒田長溥公から苗字帯刀が許されました
他にも弥平は
万延元年(1860)に東北地方を旅しています。のち明治6年(1873)享年71歳で没しています
とありました。
そこでちょっと気になることが。どうして功績を記した『石碑』が、人工の島に埋められていたのかということ。私、推測してみました。
これつまり小学校の想い出なり。未来に残したい品々を生徒各々が小箱に入れて
校舎の片隅に埋めるという、タイムカプセル方式。それはメモリー。
ちなみに弥平の石碑には
こういうふうに刻まれていたとのことです。↓
天保弘化之間 頻有洪水損橋
再三稲光弥平 憂之安政二年
春築此中嶋也
【稲光弥平顕彰の碑 】
福岡市中央区春吉2丁目3