村人が一丸となって書き写した68772個【伊賀薬師堂】

先日、福岡市東区の蒲田地区に鎮座する、↓

『部木八幡神社』(↓)を訪ねたお話をしました。で、

その帰り道のこと。

多々良川を眺めて一人黄昏ていたら、

ふと視線の先にもりもりっとした感じの木が立っているのに気付いたんです。

早く帰ってチョコミントアイスが食べたかったんですが、ちょっと我慢して立ち寄ってみることにしました。こんにちは。

多々良川を渡った先の川沿いには↓

石碑がいくつか並んで立っている。治水的な碑なのかな。分かりません。(※→薬師堰鉱害復旧の碑だそうです)↓

そのすぐそばの民家の間を抜けていくと↓

巨大な木がどんと聳え立っており、そしてそこに【伊賀薬師堂】がありました。

ちょっと離れて見てみるとこんな景色。↓

では境内へ失礼します。

 

粕屋町指定文化財天然記念物クスノキ。でかい!↓

立派だなあ。↓

支えられている。↓

振り返るとこんな景色。↓

正面には本堂があって↓

隣りに説明書きの石碑。↓

さっそく読んでみますと↓

伝教大師『最澄』彫刻薬師如来像開眼1200年記念事業の碑

とのことで、その左隣りにも説明書きがありましたので↓

読んでみますね。↓

伊賀薬師堂の由来。今から約1200年前、天台宗の開祖である最澄は唐から帰国し立花村(現在の新宮町)で独鋸寺を開き、薬師如来像2躯を彫刻したとされ、1躯は独鋸寺に安置して、もう1躯をこの地にお寺を建立してお祀りしました。これが瑠璃山東圓寺の始まりとされています

続きます。↓

開基当時の東円寺は広大で、諸堂・僧坊を備えた大伽藍だったよう。当時の伽藍の広さは、現在に残っている寺田・御堂ノ原・瓦ヶ田などの字名から推測でき、繁栄を物語っています

そののち↓

天正14年、島津軍が立花山城を攻めたとき、兵火にかかり焼失。幸い本尊は無事だったので、戸原村の大庄屋が本堂を、その息子が薬師如来像と十二神将の修復を行いました。享保の飢饉では庄屋の長卯平により本堂が再建。当時の意匠は現在にも引き継がれています

とありました。「薬師瑠璃光如」。↓

「十二神将」。↓

説明書きに添えられた、建て替え前の本堂の姿。↓

現在の本堂の姿。↓

境内には他にもお堂があって↓

奥まで進んだところには↓

再び説明書きが。↓

読んでみます。↓

京都万福寺の住職を務めた鉄眼道光は、仏教経典をより多くの寺院へ渡せるよう、版木を使った印刷経典を普及させました。戦国の兵火にかかった伊賀東圓寺(現伊賀薬師堂)と蒲田弥勒寺を再興するため、鉄眼道光の制作した大般若経がそれぞれの寺に300巻ずつ納められました。(弥勒寺の300巻はのち部木八幡宮に移されました。その後、昭和15年より全600巻をこの奉納庫で保管

とのこと。

 

こちらが奉納庫!?

さらにさらに説明書きがあって↓

今度はこんな具合。↓

享保17年に享保の飢饉起き、多くの人が餓死したと伝えられます。犠牲者を供養するために建てられたこちらの供養塔の地下2メートルのところから、68772個の小石が発見。法華経の文字が1文字ずつ書かれていました。当時の村人が一丸となって書き写したものと考えられます

「供養塔」。↓

境内には、詳細は分かりませんが

他にも多くの石碑が立っていました。猿田彦!?↓

といったところで、そろそろ。まあまあ。いえいえ、そろそろ。どうもどうも。ではでは。

家に帰ったらコーラフローズンアイスを食べたいと思います。おわり。


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【伊賀薬師堂】

福岡県糟屋郡粕屋町戸原東2丁目12-25