一人で帰るつもりだったあるある【筥崎宮02】

前回の続きです。

前回、私は福岡市東区の箱崎地区に鎮座する【筥崎宮】を訪ね、もう少し早い時間に来れば良かったなと思ったのであった。↓

では今回も引き続き【筥崎宮】を散策したいと思います。↓

今回は、参道を横切る小道(福岡直方線)を渡って、通りに面して立っている一の鳥居をくぐるところからスタートです。↓

おめ!↓

一の鳥居は黒田長政による建立とのこと。↓

大社筥崎宮。↓

裏に廻ってみたりして。↓

ぴかぴかー。↓

博多魚市場。↓

少し先には立派な楼門。小早川隆景による再建。↓

そばに説明書きがありましたので↓

さっそく読んでみたいと思います。↓

筥崎宮は延長元年(923)の創建。ご祭神は「応神天皇」「神功皇后」「玉依姫命」。元寇の際に社殿を焼かれたほか何度かの火災に見舞われました。天文15年(1546)、大内義隆により現在の本殿と拝殿が、文禄3年(1594)に小早川隆景により楼門が再建されました。また境内には「蒙古碇石」があります。

とのこと。



さらに案内板がありましたので↓

こちらもチェックしますよ。↓

筥崎宮は宇佐・石清水両宮とともに日本三大八幡として崇敬あつく、特に鎌倉時代以降は武神として武家の信仰をあつめました。

また↓

「敵国降伏」の扁額がある楼門は伏敵門として有名です。

夫婦石。↓

唐船塔。↓

こちらの説明書きを↓

さっそく読んでみます。↓

日本にとらわれた唐人の祖慶官人は箱崎殿(筥崎宮大宮仕)に仕え、日本人妻と二人の子と幸せに暮らしていました。

ですがあるとき↓

唐土に残した子どもが迎えにきたので、箱崎殿は日本で生まれた子どもも連れて帰ることを許したのでした。その際、迎えに来た子どもが、父が死んでいたら建てようと持ってきた供養塔がこの塔だといわれています。

また↓

日本人妻と祖慶官人が分かれる時に腰掛けて名残を惜しんだといわれる一対の石を夫婦石といいます。

ということらしいですよ。大楠。どどん。↓

さざれ石。↓

元寇歌曲碑。↓

そしてこちらは蒙古軍船碇石。↓

説明書きがありましたので↓

読んでみますね。↓

文永11年、蒙古軍が博多に迫るも、翌日姿を消しました。これを神風によるものだという。

続きます。↓

古来、博多付近には蒙古軍船の碇石と称するものが10数本あります。この碇石は博多港中央波止場付近の海中から引き揚げられた6本中の1本である。

とのこと。境内にはすでに、あれやこれやと見どころがたくさんで、なかなか先へ進めません。嬉しい悲鳴!!

ようやく手水舎まで辿り着きましたけども↓

まだまだ先は長そうです。それはつまり、今回はここまでということ。また次回にお会いしましょう。


【筥崎宮】

福岡市東区箱崎1丁目22-1