元寇の寇は外敵の意【元寇防塁01(百道地区)】

先日、福岡市早良区の西新地区へ寄ったついでに、商店街をぶらぶら散策してみたんです。

賑やかで活気がある通りを歩くと、それだけで元気が出てきます。

途中のところで商店街を抜け出して、明治通りを渡ってさらに北へ進路を変えてみたら↓

住宅街の通りの角に、空地というか広場があって↓

その真ん中に石碑があるじゃん。なんなの。

近寄って読んでみると

史跡元寇防塁

とあって、さらに石碑のサイドを見てみると↓

こう書いてある。↓

史蹟名勝天然記念物保存法に依り明治六年文部大臣指定

ふーん。つまり、ここにはかつて元寇の防塁があったよ、とかいっている。じゃあこの扉はなんですかっていう。説明してくださいっていう。

これも込みで元寇防塁!?

冗談はさておき。元寇防塁の碑があるということは、かつてここ一帯にずらっと石塁が並んでいた筈ですよね。

そこで、そのまま通りに沿って歩いてみると↓

今度は大きな広場が見えてきました。

奥にあるのは「福岡市西新1号墓地」だそうで

その手前のところに、しっかり『元寇防塁跡』がありました。予想通りで嬉しい。

『元寇防塁跡』は柵で囲まれており↓

そばに説明書きがありましたので

読んでみるとこんな具合。↓

元寇防塁は文永11年(1274)の蒙古襲来後に、再度の来襲に備えて博多湾沿岸の西は今津から東の香椎まで約20キロに渡って築かれた石塁。「元寇防塁」は古文書では「石築地」と記されています

続きます。↓

鎌倉幕府から防塁築造の命が九州各地に下され、短期間で築造されました。築造にあたっては、幕府の支配下にあった御家人だけでなく、荘園にも負担が課せられ、所領の規模に応じて築造する長さが割り当てられました。石塁の高さは2.5から3メートル。築造工法は各地区によって異なる。石材は近くの丘陵や能古島から運んだと考えられる。1281年の弘安の役において元軍の上陸を阻止する役割を果たしました

もう少しだけ続きます。↓

その後14世紀半ばころまで防塁修理の記録がみられ、以降は埋没。昭和6年に今津、今宿、生の松原、姪浜、西新(当地とこれより東へ300メートルの地点の2ヶ所)、地行、箱崎の各地区が国指定史跡となりました

こちらが添えられた図。↓

図から読み解くに、西新地区の石塁は、ほとんど粘土と砂で出来ていて、その中に粘土だけの部分が少しだけあるっぽい。そして海側部分はというと、砂と小石で敷き詰めた上、外側を石で固めちゃいました!

 

みたいな感じ。ちなみに各地区で工法が違っているらしく、それはつまり、いかに大急ぎの突貫工事だったかを示しているとか!?いないとか!?

また説明書きによりますと、石塁の高さは2、3メートルあって、時代とともにに埋没していったというお話がありました。ということは、この下に埋まっているの!?↓

こちらは、右へ向かうと西南学院大学があってそこにも石塁あるんだよ!?の図。

ゲンコウボウルイ。なにせ語感がいい。力強い。がぜん興味が湧いてきました。

 

大学の石塁行っちゃう!?無断で構内に入って!?捕まったり!?捕まらなかったり!?しちゃったり!?乞うご期待!!


【元寇防塁(百道地区)】

福岡市早良区百道1丁目9-3