【福岡の戦争遺跡を歩く/海鳥社 01】

福岡において、戦争の記憶として特筆されるのが、昭和20年6月19日に221機のB29爆撃隊が福岡の街を無差別攻撃した『福岡空襲』。

書籍【福岡の戦争遺跡を歩く/海鳥社】では、その名の通りに、福岡地区の戦争遺跡をそれぞれ紹介してあります。

こちらの書籍より、気になった部分を参照させていただきながら(ありがとうございます)、お話したいと思います。今回は博多区の部を見ていきます。

まずは『冷泉公園』について(p19 )。

以前にも街歩きの休憩に寄ったことのある冷泉公園の、

園内中央部分には大きな慰霊塔が建っており、

こちらは空襲20年を期して建設されたものだそう。

右に高さ10m、幅2.5mの桃御影石の塔、左には円弧をなした高さ4m、幅7.5mの白御影石の碑が塔を包むように囲む。

平和への祈りをこめて 昭和40年建立。

お次は『川端飢人地蔵尊』(p25 )へ。

元は「享保の大飢饉」で亡くなられた96000人の施餓鬼供養を行うもので、

戦後は、戦死者・戦災死者を併せて供養。

作人橋は空襲で焼けるも水車橋は残った

とありました。

それから、大博通りを東へ入ったところにある『立石額縁店』へ。

額縁店内の一の間床下には防空壕が掘られているとのことで(p32)、

ちなみに以前私がこの界隈を歩いていたところ、たまたまお話しした別のおうちの方に、

今も残る玄関口の防空壕を見せていただいたことがあります。

といったところで、お次は『博多港引揚記念碑』(p41)へ。↓

博多港中央埠頭の一角に建つ博多港引揚記念碑「那の津往還」。

そばに立つ碑を参照しますと、↓

博多港引揚記念碑。博多港撤還帰国紀念碑。昭和20年の終戦直後、引揚援護港として指定を受け、約1年5ヶ月にわたり中国東北地区や朝鮮半島などから一般邦人、旧軍人など139万人の人々がこの港に引き揚げ、また当時在日の朝鮮人や中国人など約50万人の人々がここから故国へ帰っていったのである。永久の平和を願って

とありました。終戦直後、引揚援護港として指定を受け、引揚援護局は昭和24年4月の閉鎖まで続けたのだそうです。

それから御供所町の『聖福寺』(p44)。

ここ聖福寺境内には引揚者を支援する施設が設けられ、医療施設「承福病院(のちの千早病院)」などが置かれた、とありました。

それから『席田飛行場』(p47)。

福岡空港は前身を席田飛行場。敗戦後、アメリカ軍が入り九州飛行機工場や小倉造兵廠春日製造所とともに板付基地として再編されることに。

(※板付基地についてはこちらの記事も!↓)

空港は7次にわたって拡張を続け、国鉄竹下駅から引き込み鉄道線が引かれていた、というお話もありました。

(※竹下駅そして引込線についてはこちらの記事も!↓)

またそばの東平尾山中には日本軍が防空壕を掘っていたり、

高射砲部隊が置かれていたのだそうです(p49)。

さて博多区最後は『南福岡西側付近』(p51)。

ここ南福岡駅西側付近は「九州飛行機」「九州兵器」の工場があり、千代町の渡辺鉄工所が母体。航空機工場を雑餉隈に新設。現在は後継の「渡辺鉄工所」が工場を構える

とあって、書籍『武田イク著/なんばしよっとね』内には、

雑餉隈から博多の「w工場」へ通っていたというエピソードが語られていました。

そして工場は南福岡駅から自衛隊福岡駐屯地につづく広大な敷地であった、とも。

以上、ここまでが福岡市博多区に見る戦争遺跡のお話でした。(※書籍『福岡の戦争遺跡を歩く/海鳥社』より参照させていただきました)

続きはまた。