南蛮文学の花が開いちゃってる【五足の靴文学碑】
前回の続きです。↓
前回、福岡市博多区の川端地区を流れる博多川に架かる水車橋そばの通り沿いに、『川端飢人地蔵尊』を訪ねました。
今回はそこからもう少しだけ川沿いを歩いて、中洲シティを感じてみようと思います。こんにちは。
気持ちの良い秋晴れの日。
しばらく歩いた通りの左手に↓
いい感じのレトロな建物が。
こちらは『川丈旅館』というんだそうで、
その片隅にこんな石碑が立っていました。
近づいて読んでみると↓
新詩社の与謝野鉄幹を初め北原白秋・木下杢太郎・吉井勇・平野万里の九州路の旅は、紀行文「五足の靴」に綴られている。その第一夜を博多のこの旅館で過ごしたのは明治四十年七月三十一日。わが文壇に南蛮文学の花が開いたのはそれからである
なるほど。立派な人々が東京から旅に出て、その旅路の途中に、博多の地に宿泊したんだよと。ここまでは分かります。が、それって碑を立てるほどのこと!?
なにか理由がある筈です。そこでまず、wikipedia『五足の靴』を参照してみると↓
五足の靴は、与謝野寛が、まだ学生の身分だった太田正雄(木下杢太郎)、北原白秋、平野万里、吉井勇の4人を連れて旅した記録、紀行文。1907年に発表。九州を中心に各地を旅行し、旅行記は『東京二六新聞』紙上に連載。連載時は執筆者は匿名で、表題には「五人づれ」。北原白秋は詩集『邪宗門』、木下杢太郎は戯曲『南蛮寺門前』と、紀行を通じて得た着想を発展させた作品を発表した
また↓
本作品の発表を機に「南蛮趣味」の流行をもたらした。幅広い層に「南蛮文化」「キリシタン」を日本の重要な文化遺産として「再発見」させる契機に。本作品が後世に果たした役割は大きい
この5人連れの旅行は、日本文学史上における大変重要な出来事だったのだ、ということのよう。
旅程もはっきりしていて、例えば千代の松原で海水浴、とか、約32キロ徒歩で歩く、とか、柳川で川下り、とか。
え待って。
これってサークルの夏合宿やん!やん?
といったところで、今回の中洲散策はおしまい。ああ楽しい楽しい中洲界隈。それではまたいつかの日か。
【五足の靴文学碑】
福岡市博多区中洲3丁目1-18