高く高く高く高く【竹下しづの女/坂本宮尾】

以前にどこで読んだかは忘れましたが、福岡出身の俳人の作品に、

短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉乎(すてつちまをか)

という句があってとても印象に残っていたんです。

先日、それが竹下しづの女という方の作品だと知りましたので、

書籍『竹下しづの女 理性と母性の俳人/坂本宮尾著(藤原書店)』を読んでみました。そのお話です。

今回もいつものように、書籍内の気になるところを参照させていただきながら(ありがとうございます)、竹下しづの女氏の時代を見ていきたいと思います。

ちなみに「しづの女」の最後についている「女」ってなんだろう。その辺も分かれば嬉しいです。分かんなくてもいいです。

しづの女は明治20年に行橋市の大農家に生まれる。本名はシヅノ。

十代半ばに養われた漢文調の文体が、彼女の俳句を特色づけた

とありました。

福岡県女子師範学校に学び、帰郷して教員に。25歳で結婚し出産、俳句を始める。吉岡禅寺洞に師事

ここで気になるお話が。p41によると、その時期に吉岡禅寺洞らは↓

虚子を迎えて歓迎句会を開いた。都府楼址、観世音寺に吟遊した

そう、そうなんです。都府楼址には現在、高浜虚子が愛用したという、

「博多帯」を埋めたことをあらわす碑『帯塚』があるんです。これもなにかしら関係あるのかな。帯塚のお話はこちらで!↓

また吉岡禅寺洞といえば、以前、大隈言道屋敷跡を探し歩いた時、

今泉公園内の片隅に『吉岡禅寺洞句碑』が立っているのを見かけました。↓

さて禅寺洞らは俳誌「天の川」を創刊。「天の川」は女子俳句の中心の一つとなり、しづの女も参加。

しづの女は俳誌「ホトトギス」で巻頭に選ばれ、さらに「天の川」でも巻頭を飾ることになったのでした。

「ホトトギス」巻頭でもっとも注目されたのが、先述の「須可捨焉乎」の句だったのだそうで、

新しい女の時代の到来を告げるのにふさわしい作品で俳句界に衝撃を与えたのは当然(p74)

との評。それからしばらくしてしづの女は作句を中断。

復帰後には禅寺洞および「天の川」と袂を分かつことに。また夫の急逝によって一家の生活は一変。

福岡県立図書館の出納手として働くことにななり、引き続き師虚子の指導を仰ぎ活動を続けるのであった(p167)

ここからは第2部。「俳句指導者として」へとしづの女の人生は移っていきます。

福岡で生まれた学生俳句連盟の機関誌「成層圏」に、長男龍骨ともども関わるしづの女。指導者として充実した時期を過ごすも、

戦争の拡大によって弾圧を受け「成層圏」は15号で終刊。しづの女は俳句初心者に向け

有季定形の俳句の伝統にたち独自の個性を磨くという正統的方向(p238)

を主張します。終戦直前には長男龍骨を病で亡くし、終戦後には行橋で農業に励むも持病の悪化で福岡へ戻ることに。

その福岡の地で乞われて九大の学生に俳句を指導。学生たちと熱心に俳論を戦わせるも、腎臓病の悪化によりしづの女は亡くなるのでした。

竹下しづの女の一生を読んだ感想としては、良くも悪くも真っ直ぐ高く自分の意志を貫く女性であり、

師との関係や嫁姑問題など困難な問題も多々あれど、俳句に対するぶれない思いの深さに大変感銘を受けました。

終わり。