一番備えの侍大将【飯田覚兵衛屋敷の大銀杏】
先日のこと。おしゃれなシャツを買おうと心に決めて、天神地区をブラブラ散策していたんです。
明治通りに沿って、なんとはなしに赤坂方面へと向かっていたら、↓
ちょうど福岡中央区役所のトイメンの、
通りの脇のところに、なにやら石碑があるのを見つけたのでした。これはいったいなんだろう!?
気になりますよね!?気にならない!?え!?とにかく読んでみたいと思います。↓
飯田覚兵衛屋敷の大銀杏。この地は江戸時代初期から明治末年まで、黒田藩の家臣で飯田覚兵衛直系の屋敷跡。飯田覚兵衛は肥後熊本の国主加藤清正公の重臣で、一番備えの侍大将として、加藤家の三傑と称されました
一番備えの侍大将とは!?ちなみに「侍大将」というのは
主に大将軍の下で一軍を指揮する者
ということらしいです。
一番備えている。一番備えられている。一番備わっている。ああ可能性は無限大。でも良く分からない。説明書きは続きます。↓
清正公没後、加藤家が改易になったとき、親密な間柄にあった黒田長政公に客分として召し抱えられました
ちなみに「改易」とはなんなのか、wikipediaから参照しますと↓
改易は領主から家臣と居城、所領を奪い、領国を解体して大名支配を無力化することを意味したので、一つ間違えば反乱の原因とも成り得た。そのため、幕府の側も周到な準備をして、城明渡しの前には諸事に対して万全の配慮を払った
とのこと。説明書きはもう少しだけ続きます。↓
この大銀杏は、清正公を偲んで覚兵衛が普請奉行として築いた熊本城(別名銀杏城)から苗木をここに移植したもの。以来、代々受け継がれてきました。現在は福岡市が指定する保存樹
だそう。また、飯田覚兵衛のことについてwikipediaから参照してみますと↓
飯田直景は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。尾張加藤氏の家臣。通称の飯田覚兵衛で有名。加藤家三傑の1人。若い頃から加藤清正に仕える。土木普請を得意とし、清正の居城となった隈(熊)本城の築城に才を発揮
も一つついでに加藤清正公についてもwikipediaから。↓
安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将大名。肥後熊本藩初代藩主。秀吉に従って武功を挙げ、肥後北半国の大名に。秀吉没後は家康に近づき熊本藩主になった
さらに石碑のそばに説明書きがあって↓
さくっと読んでみると、こんな具合。↓
樹齢約400年の銀杏。老齢による腐朽が進行、崩落の危険性。近い遺伝子をもつイチョウを植栽。ひこばえを育成一体化。再生治療
なるほど、再生されるまでまだまだ長い時間がかかるとのことですが、↓
無事に成功して、立派な大銀杏の姿を魅せて欲しい。
それが一番備えだ(?)。完。
【飯田覚兵衛屋敷の大銀杏】
福岡市中央区大名2丁目10