魚鱗の陣形は背後が弱点【多々良浜古戦場跡】

百年橋通りの松島交差点を

北西へ進んでいくと

右手に福岡市流通センター西口があります。

倉庫街というんですか。たくさんのトラックが頻繁に行き来していました。

すぐそばには博多湾へ注ぐ多々良川。

その一角に佇むように建っているのが『多々良浜古戦場跡』の碑です。

この辺りが多々良浜の戦いがあった古戦場の跡だというわけですね!!(そのまんま)

いわゆる『多々良浜の合戦』と呼ばれるものには大きく分けて、「南北朝時代」のものと「戦国時代」のものと2つあります。

今回は南北朝時代の話し。主役は後醍醐天皇(天皇方)と足利尊氏(武家方)です。

建武の新政後、後醍醐天皇に反旗を翻した足利尊氏。

天皇方である楠木正成・北畠顕家に京都で敗れ、態勢を整えるべく尊氏は九州に逃れました。

その際、長門国赤間関(山口県下関市)で肥前の少弐頼尚に迎えいれられたのでした。



いっぽう、尊氏と対立する天皇方には肥後の菊池武敏ら数多くの九州豪族たちがついたのです。

それはもう圧倒的な兵数の差だったといいます。

尊氏が博多の地へ下り立つや、すでに戦いは始まっていました。

少弐頼尚の父貞経(武家方)が、菊池氏ら(天皇方)によって大宰府で陥落。その後有智山で自害します。

(菊池氏と少弐氏には、もともと深い因縁が。そう、菊池神社のお話です。この合戦以前に、鎮西探題の件で菊池氏は少弐氏に裏切られ、1333年に菊池武時が戦死しています)

宗像氏範の支援を受けた足利尊氏(武家方)は、宗像から香椎を経て多々良浜右岸の高台に陣を構えました。(この辺りのことかな)↓

菊池氏側(天皇方)は大宰府から駆け上がり、南筥崎に陣を構えたのです。

こうして両者が多々良川をはさんで睨み合うことに。↓

とはいっても、この時点で尊氏の負けは明らか。何度も言いますが兵力の差が尋常じゃない。

高台から戦局を眺め、どうもみても”負け確”に絶望する尊氏。

弱気になって自害まで口にする兄に対し、弟の直義が諌めはげますほどだったとか。

そんなこんなで建武3年3月(1336年4月)、戦いの口火が切られたのでした。

戦いの方はといいますと、菊池氏側についた豪族の寝返りだとか、神風が尊氏側に吹いただとか、直義による魚鱗の陣形が功を奏しただとか。



諸説もろもろあるようですが、とにかく激戦の末に尊氏側(武家方)が菊池武敏ら(天皇方)に奇跡的に勝って幕を下ろします。

この勝利で勢いを取り戻した尊氏は九州を手に、再び京都へ向かったのでした。

そして「湊川の決戦」で楠木正成を破り、室町幕府を樹立します。

こちらは、石碑のそばにある兜塚。↓

この合戦で数千に及ぶという死者を弔うものとのこと。↓

この辺りは以前は「花園の森」とよばれていたのだそうです。

【多々良浜古戦場跡】

福岡市東区多の津1丁目20

【兜塚】

福岡市東区多の津1丁目1