デカンショデカンショ【博多大正世相史/井上精三著】
書籍「博多大正世相史/井上精三著」を読みましたので、今回はそのお話です。
いつものように気になる箇所を参照させていただきながら(ありがとうございます)、博多の大正時代を学んでいければと思います。

ではさっそく始めたいと思います。↓
大正時代は1912年から1926年の15年間をさし、明治時代に取り入れられた西欧文化がこの大正時代に大きく花開きます。
大正時代の博多の、秋の訪れで良く知られたのが菊人形(p25)だそうで、↓
菊の衣装をつけた人形を飾り趣向をこらした見世物。大正を最盛期にその後は見られなくなりました
とありました。もともとは江戸麻布ではじめられたもの。博多では、新柳町遊郭前の空地で開催され、西公園・大濠公園北側広場に移り、秋の行事となりました。
西公園下、入り口から両側に咲く鉢植えの菊。建物に入ると第一場が曽我兄弟富士の仇討。第二場が紅葉狩り。第三場が花咲爺。第四場が本能寺の信長。第五場が相馬大作水底活劇。第六場が吉原百人斬り
続きます。↓
第七場が羅生門。ここをくぐると大切の部屋で舞台があり、大切の部屋を出ると博多にわかや浪花節芝居が演じられた
だそうで、西公園では春だけでなく秋も菊人形見物で賑わったとのこと(p28)。

(※新柳町についてはこちらの記事も!↓)
(※西公園についてはこちらの記事も!↓)
(※大濠公園についてはこちらの記事も!↓)
それからお話は変わって。大正時代の博多の芸能としては「筑前琵琶」があげられます。(p164)
筑前琵琶とはwikipediaによりますと、↓
福岡県で作られてきた琵琶および盲僧琵琶の系譜を引く語り物音楽の1ジャンル。初代橘旭翁が薩摩で薩摩琵琶を研究して帰り、筑前盲僧琵琶を改良、新しい琵琶音楽として作り出されました
とのこと。
(※筑前琵琶についてはこちらの記事も!↓)
一丸智定(橘旭翁)や吉田竹子などの演奏家と、そして実業家加野熊次郎、新聞記者今村外園の努力、また金子堅太郎による中央への紹介で筑前琵琶は一躍脚光を浴びます。
吉田竹子が金子堅太郎の紹介で上京し大評判になりました。これら名人級は東京に居を構え筑前琵琶の普及につとめたのでした。
昭和初期になると新しい娯楽に押され人気が落ち、権威づけの試みも失敗。流派の乱立も人気低下に影響したといえる、とありました(p171)。
終わり。
(※書籍『博多大正世相史/井上精三著』を参照させていただきました)



