あえてその場を選んだというお話も【高橋紹運公墓所】

前回の続きです。↓

前回、福岡県太宰府市にある【金光寺跡】を訪ねました。↓

【金光寺】というのは、かつて『観世音寺』の子院の一つであったと考えられているお寺で↓

その【金光寺跡】がある場所は、ちょうどキャンプ場の入り口でもあったんです。↓

そこで私はみんなキャンプ盛り上がってるう!?とか思って↓

キャンプ場をちょっと散策してみることにしたのであった。今回はここからスタートです。↓

キャンプ場は『市民の森』の一部らしく↓

広場から先は、そのまま登山路になるみたい。↓

しばらく進むと↓

木の枝の杖が置いてあって(おすすめ)、案内板が出ている。↓

どうやらこの先へ進んでいけば【岩屋城跡】そして【高橋紹運の墓】がありますよ!?とのこと。↓

だけどなにがなんだか良く分かりません。

そこで【高橋紹運】と【岩屋城】に関して↓

wikipedia内『岩屋城の戦い』の項から参照してみたいと思います!!↓

1581年のこと。勢力を強めた島津氏は筑前の秋月種実、東肥前の筑紫広門といった小勢力を服属・和睦していきました。島津氏にとって、九州征服を達成するのに倒すべき相手は大友氏を残すのみ

そして遂に↓

島津氏は筑前へ進撃します。まず、大友側に寝返った筑紫広門の勝尾城を落城。広門は降伏します。(でものちに奪還!!)

一方、戦いの相手である大友氏側というのは↓

大友氏の配下である「岩屋城の高橋紹運」。「宝満山城主で紹運の次子・高橋統増(のちの立花直次)」、「立花山城主で紹運の長子・立花宗茂」

その両軍が、1586年に岩屋城にて激突したというわけです。参照はもう少し続きます。↓

大友側の兵士763名は岩屋城に籠りました。そこへ島津氏が攻撃をするのだけれど、お互いにとって消耗戦が続きます。その間に行われた和睦交渉も決裂

そして開戦から半月後↓

均衡は破れ、高橋紹運は高櫓に登り割腹し、763名全員が討死または自害したのでした

こうして岩屋城の戦いは終わったのだった。

さて、山道をさらにしばらく進むと↓

ドドンと案内板が出ていて↓

こちらを右へ進むと【高橋紹運の墓】で

 

左へ進めば【岩屋城跡】。↓

まずは右へ向かいたい。と思います。↓

すると、再び案内板が出ていて↓

【高橋紹運ならびに家来衆の墓所】と記してある。↓

そしてこの墓所がある場所は、【岩屋城】の二の丸でもあるらしく↓

だから次回はもう少し登って、【岩屋城】本丸を目指します。続きはこちら!↓


【高橋紹運墓所】

福岡県太宰府市観世音寺?