太閤町割の面影しのばせ【太閤道伝説を歩く/牛嶋英俊02】

前回の続きです。

前回、書籍『太閤道伝説を歩く/牛嶋英俊 弦書房』を読みながら、

かつて秀吉が駆け抜けたと言われる『太閤道』を辿り、東区原田地区までやってきました。

では続きを読んでいきたいと思います。

 

書籍によりますと、ここ原田地区から箱崎へと向かう道は新旧2経路あったと推測され、↓

太閤道は直線で西門橋へ進み、唐津街道は右斜めへと向かう

とのこと。地図を参照させていただくと多分ざっくりこんな具合。(書籍には詳細な解説あり)↓

箱崎へ到着した秀吉は筥崎宮神殿に宿陣。箱崎の地は秀吉の九州での拠点であり、

(※筥崎宮のお話はこちらの記事や↓)

(※こちらの記事でも!↓)

ここ箱崎の地にて「バテレン追放令」を発したり「九州仕置(九州諸大名の領地定め)」を行うなどしたとのこと。

また箱崎の地ではたびたび茶会が催されたのだそうです。

さて直線で石堂川に架かる西門橋へ伸びる『太閤道』は、

福岡の中央エリアそれから西エリアへと入っていきます。↓

西門・店屋町から中州(洲)をへて、築城で崩される前の赤坂丘陵北端を迂回して六本松にいたり、その先の『太閤道』に続く幹線があった(p183)

そして六本松を過ぎると、

名護屋城往来に通った道が七隈村に残っており「太閤道」とよぶ(p188)

それは、↓

東は六本松から別府、田島の西の犬馬場、さらに原村、小田部の北、姪浜の南を経て生の松原にいたる道

六本松。↓

別府。↓

現在地で見ると、『太閤道』は

「護国神社前」バス停から西へ進み「中村学園大学前」交差点別府交番裏の小道に分岐。

せまい生活道路を直進、飯倉2丁目で202号線と合流します(p189)

続きます。↓

中村学園大学裏から原にかけての太閤道は古代からの道路を踏襲整備したものといえる

ということみたい。

(中村学園大学裏から原にかけての太閤道についてはこちらの記事で!↓)

『太閤道』はここから生の松原、さらに西へ西へとはるばる続いていくわけですが、今回は割愛。

ここでひとまずおしまいです。

多くの学びのある読書となりました。完。(※秀吉にゆかりのある場所といえば他に博多区奈良屋町の「豊国神社」や)

(※それから中央区平尾の「平尾八幡宮」にも秀吉が立ち寄ったというお話がありました)


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