地を掘らしめ水を得たり【太閤道伝説を歩く/牛嶋英俊01】

今回、書籍『太閤道伝説を歩く/牛嶋英俊 弦書房』を読んでみましたので、そのお話をしたいです。こんにちは。

いつも通り、ページの中から気になる箇所を参照させていただきながら(ありがとうございます)、学んでみたいと思います。

『太閤道』といえば。以前、書籍『海路12号』を参考にして、

福岡市を東西に走るかつての官道(一部)の跡を辿ってみたことがあるんです。↓

その時は福岡市中央区薬院から福岡市早良区有田遺跡群まで駆け抜けたわけですが、

その道中、城南区の中村学園大学そばに、↓

秀吉ゆかりの『太閤道』なる通りが走っているらしい!と聞きつけて、

短い区間ではあったけど、さっそく小道を歩いてみたのでした。

また、話は少し変わりますが、唐津街道の一部の区間(青柳宿から姪浜)を辿ってみたこともあって、

その時に読んだ書籍『街道と宿場町』には、

こんなお話がありました。↓

唐津街道の前身としては、豊臣秀吉による朝鮮侵略に利用された太閤道があり、そのルートを変更改修して、唐津街道と宿駅ができました

名護屋城へ向かう道『太閤道』をベースにして、のちに唐津街道がつくられた、という歴史の流れのようです。

つまり、官道→太閤道→唐津街道!?!?ん?違う?それはさておき、

過去に得た経験と知識をフルに活かしながら、今回、太閤道伝説バリバリいかせていただきます。よろしくっす。

 

まずページを開くと『太閤道』についてこう記してありました。

秀吉は北海道をのぞくほとんどに足跡をしるしている。各地に秀吉が作ったまたは通ったという場所があって、それは点としての「太閤水」であり、線としての「太閤道」と考えられる

続きます。↓

九州における秀吉の太閤道は三路線。島津征伐の道、朝鮮出兵における名護屋城出陣への道、名護屋城へ向かう別ルート(p7)

(※島津征伐についてはこちらの記事も!↓)

今回は名護屋城へ向かう第一の道筋を見ていきます。さて秀吉は、

京を出ると赤間ヶ関から渡海して小倉に上陸

し、それから翌日には、

筑前赤間(宗像市)へ到着

します。ここ赤間近辺には秀吉にちなむ伝承が見られ、

三郎丸地区には「太閤水」と呼ばれる井戸が

それから、

大穂町には太閤橋と呼ばれる橋が架かっていた(p152)

とのこと。古賀市に入ると、チャイヤマ(茶屋山)とよばれる丘陵の先端が見えてくる。ここは

秀吉が休憩した茶屋(本陣)の跡

と伝えられているのだそうです(p154)。チャイヤマを過ぎさらに進むと、唐津街道の記事でも訪ねた、↓

青柳宿の青柳村を通過、道は三代(新宮町)へと入っていきます。

新宮町にも『太閤水』と呼ばれる井戸があって、↓

その説明書きには、↓

秀吉を追ってきた堺の茶人「津田宗及」は三代の里に滞在。茶をたてる水を求めて掘り当てたのがこちらの湧き水。秀吉は喜び「宗及水」と名付けました

とありました。さて書籍での『太閤道』の検証はいっきに名島までワープ。

ちなみに唐津街道の道筋は名島へ向かわず、「わくろ石」のあった松崎の方角へと伸びていました。↓

これに関して書籍には、↓

糟屋郡から箱崎にいたる当時の街道には二経路あった。前松原付近で西に分岐し名島にいたり箱崎に入る道。これは街道から名島城へアクセスする道。もう一つは、多々良川の橋を渡り原田を経て箱崎に入る道。これは主街道(p171)

とありました。

名島では、

多々良川に架かる新築の橋「箱崎前の橋」を秀吉は渡ったとされている(p168)

また現在、

名島の海岸には、

「秀吉茶遊井戸跡」の案内が貼り付けてあります。

(※名島のお話はこちらでも!↓)

その名島を過ぎると、

『太閤道』は東区原田地区へ。

(※原田地区についてはこちらの記事も!↓)

といったところで、今回はここまで。2回に渡ってお届けする続きのお話は次回に!

よろしくお願いします。