否定の否定【西日本人物誌/仙厓 岡田武彦監修】
書籍【西日本人物誌/仙厓 岡田武彦監修】を読みましたので、今回はそのお話です。こんにちは。

いつものように、書籍内の気になる箇所を参照させていただきながら(ありがとうございます)、学んでいければと思います。よろしくお願いします。

さて、書籍を開いてすぐに語られる「はじめに」の中に、さっそく気になる箇所がありました。↓
仙厓のことを調べるにあたって、福岡市総合図書館内に所蔵されている三宅酒壺洞氏による仙厓の原著作の写本等
三宅酒壺洞と言えば、以前、博多区の大博町界隈を歩いていた時に、山頭火に関する説明書きがあってその中に、
竹の子ぐいぐい伸びろ。放浪の俳人山頭火を物心ともに援助していた三宅酒壺洞氏の長男誕生を祝った句
という一文を見つけたことがあります。

つまり三宅酒壺洞氏というのは種田山頭火とは別に仙厓との関係もある、キーパーソン的立場の人物!?
それはさておき、書籍の方を見ていきましょう。まずは仙厓の生涯から始まります。↓
仙厓は美濃国武芸川町に井藤甚八の次男として生まれたというのが定説。11歳のとき空印円虚のもとで得度(僧になる)
続きます。↓
清泰寺で8年ほど過ごし、19歳で初めての行脚の途につきます。月船禅彗に入門し、19歳から32歳までを東輝庵で禅修行に打ち込む
そして32歳から39歳までの間に人生2度目の行脚。この期間を旅に生きるも、
その間の仙厓の動向を伝える資料は乏しい(p26)
とありました。
繁華の江戸を発って奥州へ向かう仙厓。1787年に博多聖福寺の盤谷紹適の弟子になることを承諾し、京都から聖福寺へ出立するのでした(p41)
聖福寺。臨済宗で山号は安国山。
開祖栄西より数えて第123世の法燈を仙厓が継ぐことになりました。本山である京都妙心寺で正式の住職に(p45)
39歳で住職についた仙厓は、↓
1800年には、聖福寺の再興に着手
それから時は流れ、↓
計23年間住職を務めたのでした。気骨、洒落っ気ゆえ博多の人たちに愛された仙厓(p57)。1805年には、湛元が弟子となっています
そもそも聖福寺というのは、↓
臨済宗をわが国にもたらしのが栄西が入宋し印可を授けられ帰国したあと、博多に建立したのが聖福寺(p96)
仙厓はその栄西を師と仰ぎ、↓
体制への一貫した反骨精神を示す栄西禅の継承者であるという自負があった(p97)
とのこと。

また仙厓といえば禅画でもよく知られているそうで、絵に関しては、↓
聖福寺の住職となってからは、円山応挙の弟子で秋月藩のお抱え絵師斉藤秋圃に学んだとも、天台宗の僧豪潮寛海に学んだともいわれています(p110)
(※斉藤秋圃についてはこちらの記事も!↓)
それからのち、↓
幻住庵に隠居した後は画風に変化があらわれ、独自の画風を確立することに(p110)
1863年、仙厓臨終の際には、
差し出された料紙に、死にともない死にともないという言葉を書いた(p162)
とありました。といったところで、

書籍『西日本人物誌/仙厓 岡田武彦監修』のお話はここでおしまいです。

次にこちらの書籍も読んでみたいと思います。『仙厓 BEST100ARTBOX/出光美術館編・著』。

この書籍は仙厓が生み出したものから選ばれた作品集。まずページを開いてすぐに、仙厓についての生涯が記されていましたので、参照させていただきます。
仙厓は美濃国武儀郡の農家に生まれました。諸国行脚で修行を積みます
江戸時代中期、江戸文化の華やかな時代に活躍した仙厓。↓
39歳で、戒壇院(観世音寺)の太室玄昭に勧めで博多に下り、聖福寺へ
(※観世音寺のお話はこちらで!↓)
そして、↓
62歳で虚白院に隠棲
のち、↓
弟子湛元が福岡藩とのいさかいで遠島となったため、仙厓は急遽住持に返り咲くことに。そして88歳でこの世を去るのでした
生前、仙厓は数千点とも推測される書画を生み出したわけですが、↓
彼の作品の最大の特徴は「笑い」。それから人生訓
とのこと。
中でも特に知られるのが三つの図形を組み合わせた○△□。難解な作品であり、定説を得るまでに至っていない
のだそうです。終わり。

(※書籍『西日本人物誌/仙厓 岡田武彦監修』『仙厓 BEST100ARTBOX/出光美術館編・著』から参照させていただきました)


