その他3点備忘録【大野城市巡杖記02/赤司岩雄著】
先日読んだ書籍『大野城市巡杖記/赤司岩雄著』を再読していたところ、
さらに気になる箇所が3点ありましたので、

いつものように書籍内から参照させていただきつつ(ありがとうございます)、皆さまと見ていければと思います。よろしくお願いします。
まず第1点目はこちらから。
大野山は大野城が築かれてからは大城山と呼ぶようになり、山頂に四王院が建立されると、四王寺山と呼び親しむようになった(p25)
とありました。以前、四王寺山を登った時に、その呼び名について、概念が大事だとかなんとか色々言っていたんですが、

今回こうして名前の変遷が分かりましたので、
備忘録として参照させていただきました。ありがとうございます。

そして2点目。こちらも備忘録となります。書籍p117に、明治の文豪田山花袋著「水郷日田、附博多ー久留米」に関するお話があって、

花袋は雑餉隈についてこんな風に紹介しているそうなんです。↓
地名だけでも昔を思わせずに置かないようななつかしいところ。平安時代の混雑と雑踏とをそこにありありとみるような気がした。今は勿論そこには何もありはしなかった
またこうも言っています。↓
平家の女達が慌ただしくかよわい脚に行膝などをつけて、此処を通って行ったさまが、絵巻か何ぞのようになって、はっきり私の眼に映った
とのこと。

日田と雑餉隈が出てくることから、日田街道のお話もありそう。いつか読んでみたいものです。(※田山花袋といえばこちらの記事も!↓)
(※雑餉隈といえばこちらの記事も!↓)
それから最後の3点目は、「御笠の杜(森)」について。書籍内「杖立天神社」を説明する箇所にこんなお話がありました。↓
都を追われ大宰権帥として博多多の津に上陸した道真公。乗り物も与えられず隈麿と紅姫の二人の子どもの手を引いて、金隈村(現福岡市博多区金隈)までやってきました
続きます。↓
やっては来たものの、長旅の疲れと脚気で足取り重く、山田村の御笠の杜で休まれた(p35)
とのこと。

御笠の杜(森)については、かなり昔に、初訪問したお話をしたことがありますし、↓
またそのしばらく後、笠が飛んだと思われる道筋を勝手に辿ってみたこともあります。↓
で、御笠の杜のお話に戻ります。

都落ちをして大宰府へ向かう道真公の足跡は、福岡内でも各地に多々あって、
私が知っている史跡を挙げてみると、まず「鏡天満宮」。
こちらは、↓
菅原道真公が、博多に上陸された第一歩の地で、休憩の時に「海路の疲れでやつれた顔を鏡に映してご覧になった」と伝えられる、『鏡』を祀った神社
それから「綱敷天満宮」。↓
ここは↓
博多の袖港(そでのみなと)に道真公が上陸した際、地元の漁師が舟の綱を輪にして敷物を作り、道真公を出迎えた場所
とありました。また「水鏡天満宮」には
こんなお話があって、↓
菅原道真公が大宰府を目指すその道すがら、四十川(今の薬院新川)の水面に映る自分の姿を見て、道真公はひどく落胆したといいます
それが薬院のこの辺りと思われます。↓

さらに道真公の辿った道筋は、警固地区だとか↓
平尾地区、それから、
城南地区など多々確認出来るわけですが、
その移動手段については謎だったんです(私の中で)。最終的に道真公一行は「水城老松神社」そばで上陸をし、
そこから「榎社」まで陸地で向かったことは判明しており、
だけど今回の書籍内のお話によれば、博多多の津に上陸後、ずっと徒歩っぽいじゃないですか!?いったいなんなんですか!!

ひょっとして「御笠の杜(森)」まで徒歩で、そこから「水城老松神社」までは水路を使ったとか!?

子ども二人連れの旅路ですし、徒歩は結構大変だから。

ああ謎が謎を呼んでいる。詳細分かり次第、あらためて緊急でご報告します。終わり。













