二人羽織は博多にわかの名舞台【博多にわか読本】
さて、ところで皆さま。「博多にわか」ってご存じですか?
私は言葉だけは聞き知っているけど、それがいったいどういったものなのか、さっぱり分かりません。

そこで書籍『博多にわか読本/井上精三著(葦書房)』を読んで学んでみようっていうのが、今回のお話です。

気になる箇所を参照させていただきながら(ありがとうございます)、一緒に見ていきたいと思います。まず、↓
博多にわかは博多独特の芸能だが、にわかそのものは博多だけのものではない(p5)
と初めに記してあって、
にわか自体は、江戸幕府中頃、浪花をはじめ各地に起こるも、明治には博多以外でほとんどすたれる
とありました。また「にわか」という言葉の意については、「古今俄選」からの引用があって、↓
思いつきのまま言いだし仕草をするのが俄(にわか)。急であり不意でありにわかでなくてはならない
だそうです。つまりにわかとは、即興の戯の意であるんだけれど、その他諸説あるらしい。
また「にわか」の起源については「今古参考南水漫遊」からの引用が記されており、↓
御神幸の行列にまじっておどけて参拝者を笑わせたのが最初のにわか
そして「古今俄選」によれば、↓
だいたい享保前後からにわかという名称が出てきた
との引用が記されていました。18世紀のにわかには色々な形があって、それは例えば、↓
○「ひとり歩きのにわか」、○ネイネイといって歩きまわる「ネイネイにわか」、○こりゃなんじゃと質問すると面白く答えて落とす「こりゃなんじゃにわか」
などなど多岐にわたるらしい。にわかの形は次第にその土地によって複雑化されていき、そして、↓
本来の即興性が薄れていき、大坂以西では狂言化し、関東では吉原にわかとなるのだった
天保のころの博多にわかはというと、
仮装が主体であり、内容は単純なもので笑わせた。その際、素人ゆえに恥ずかしさが先立つゆえ、半面がなくてはならなかった
半面があるゆえの演技への影響は、↓
為政者への罵倒、悪口など大胆なものになっていった
のでした。にわかが演じられるのは明治になっても盆の時期に限られていて、↓
盆の5日間ぐらいは町がにわか一色に塗りつぶされるのであった
そして様々な組によるにわかが演じられたあとは、↓
大寄せといって連中の主なものが網敷天満宮に集まり、にわか番付を作って奉納したこともあったとか
(※網敷天満宮のお話はこちらで!↓)
明治の中ごろから末期にかけての博多にわかは、素人にわかの全盛期。↓
次第に季節を選ばず芝居小屋でも演じられるようになり、盆にわかは消滅することになる
そして明治終わりには職業にわか師があらわれ、博多にわかは複雑化へと向かうのでした。
大正中頃になると世間の芸能変革により、にわか芸能は下り坂に。
戦後になると今度は一口にわかが盛んになります。ちなみに戦後の出来事でいえば、
昭和32年素人博多仁和加コンクールが開催。優勝者には富永朝堂作の木彫り大型の仁和加面が贈られた
だそうです。この面は!実に欲しい!(※富永朝堂についてはこちらの記事も!↓)。
といったところで、ここまでが博多にわかの歴史のお話でした。ここからは博多にわか自体についてのお話へ移ります。
博多にわかにおいて「反面」と「かずら」が欠かせないと言われており、まず半面というのは、↓
仮装としての要素それから覆面という要素がある
とのこと。「かずら」については、↓
頭の装飾としての役割がある
のだそうです。いざにわかが始まると、
まずは関係ない世間ばなしで客をひきつけ風刺や毒舌が始まり、そして本筋へ入っていきます。のち話題はいくつか進展し、
最後に「落ち」をつけて賑やかに幕がおりる
という形式をとっていて、「落ち」に関して言えば、↓
同音異義の言葉で落とすのが「地口落ち」。博多にわかは主として地口落ちである
「落ち」というのは結びだけの条件であり、にわかの生命はまず「風刺」と「笑い」にある、つまり
「笑い、風刺、ギャグを含み、口合いをオチとする博多ことばによる小話」が博多一口にわかである
とは、著者の言。書籍後半部分には、博多で使われる方言がまとめてあったり、一口にわか傑作選がたっぷり収録されています。
書籍のお話はこれにておしまい。(※wikipedia『俄』の項からもにわかについて参照させていただくきます↓)
江戸時代から明治時代を中心に祭りの往来や宴席などで即興的に行われた笑いの芝居。
名前の由来は諸説あり、狂言をにわかに演じたことから呼ばれた、また路上で突然演じられて衆目を集めたため「にわかに始まる」という意味から「俄」と呼ばれるようになったとも
続きます。↓
江戸末期に大阪などで歌舞伎の演目の内容をパロディ的に滑稽に演じるものとして流行。吉原俄は踊りが中心。全国では滑稽踊りのほかに仮装行列、漫才のような掛け合いなどさまざまな滑稽ごとが俄の名で呼ばれている
続きます。↓
博多俄。幕末にはすでに岡崎屋嘉平、馬場の宗七、市小路の吾平らが活躍。明治後期以降は初代博多淡海が活躍。
様式は「博多弁で会話」し「駄洒落で落ちを付けて話を纏める」もので、人数や台本によって「一人仁和加」や「掛合い仁和加」「段物仁和加」等の種類がある。1人で演じるショートコント型の「一口仁和加」が主流。半面(目かづら)を付けて演じる
終わり。

