16時間【憂国の士 中野正剛/濱地政右衛門】
前から気になっていた書籍【憂国の士 中野正剛/濱地政右衛門(海鳥社)】を借りてきましたので、今回はそのお話をしたいです。

中野正剛といえば、福岡市中央区の今川地区に鎮座する『鳥飼八幡宮』の隣りに、
中野正剛先生像が建っており、これまでしばしば通り過ぎてはいるのですが、

この方がいったいどういった偉人なのかさっぱり知りませんので、書籍を読んで学んでみようというわけです。

今回もこれまで同様、気になる箇所を参照させていただきながら(ありがとうございます)、読みすすめていきます。よろしくお願いします。

さて、中野正剛(以下敬称略)は現在の中央区荒戸3丁目に生まれます。マップで見るとこの辺り。↓
学生の頃は反抗心が強く喧嘩にあけくれたそうです。修猷館へ進学し、明道館(玄洋社柔道場)へ通い柔道を続ける。文武両道を究めたと。
(※玄洋社についてはこちらの記事も!↓)
一級下には緒方竹虎がおり、また8年先輩には広田弘毅が。(※広田弘毅についてはこちらの記事!↓)
早稲田大学へ進学。卒業すると日報社に入社、のち朝日新聞社へ転社。
当時の朝日新聞の校正部には石川啄木がいて、朝日新聞の19歳年長には夏目漱石が。(※夏目漱石についてはこちらの記事も!↓)
特派員として朝鮮へ旅立ち各地を視察(p47)、三宅雪嶺らに旅費の援助を受け欧州留学へも向かいます(p53)。
当時の正剛は↓
藩閥打倒・護憲運動への情熱、辛亥革命への共感に「民族の平和と自由の認識」が加わり、アジア諸民族のナショナリズムと半植民地主義に目を開かされた(p55)
とのこと。1年半ぶりに帰国すると、朝日新聞を退社。
31歳で福岡市から立候補するも次点で敗れることに
時論社で主幹となり
中国の南北分裂に対し「中国の統一を助けてアジア共存の大系を樹立せよ」と主張(p62)
第一次大戦が終了すると、講和会議に特派員として参加。再び総選挙に立候補し当選。満州視察旅行へ向かうのでした。
それから、
政党に潜む金権癒着を厳しく批判し(p84)、犬養毅や尾崎行雄らと革新倶楽部を結成(p85)。のち憲政会に入党
次第に軍部が台頭し始める世の流れの中、
国民使節としてドイツイタリア訪問に旅立ち(p148)、ムッソリーニ、ヒトラーと会見
昭和14年には衆議院議員を辞任(p164)。第2次世界大戦が勃発(p166)。そして東条内閣が成立(p186)すると、↓
軍部強硬派の開戦論に拍車をかけることに。ちなみに正剛は英米に対して強硬論を貫いたが開戦論者ではなかったとのこと(p189)
ファシズムの危険を予知した正剛は議員再出馬し議会に復帰します。戦局はミッドウェー海戦を転機に逆転。
朝日新聞主筆の緒方竹虎から書くよう依頼のあった「戦時宰相論」を読んだ東條が発売禁止を命じる(p210)などあり、正剛は東條内閣打倒を決意。
議会は東條礼賛の翼賛政治会が牛耳ることになっており(p233)、そこで
答礼の形で東條一人を招きその場を重臣会議にして辞職を求める計画を立てる(p225)も、東條は閣僚を同伴しており計画は失敗
のち正剛は検挙。釈放されるも自宅にて割腹自刃してしまうのでした。
といった具合に書籍【憂国の士 中野正剛/濱地政右衛門(海鳥社)】には、日本の戦局に沿うように移りゆく中野正剛の生涯が詳細に描かれていました。
ここからは、ウィキペディア「中野正剛」の項も参照してみたいと思います。↓
修猷館時代に出会った緒方竹虎とは、早稲田大学や東京朝日新聞社でも行動を共にし、大学時代には2人で下宿をしていた時期もあった。
学費や生活費を稼ぐために、三宅雪嶺の『日本及日本人』に寄稿。このことが縁となって、玄洋社を主宰する頭山満と知り合う
頭山満についてはこちらの記事も↓
続きます。↓
1941年太平洋戦争開戦時、東方会本部で万歳三唱するが長期化する戦局に懸念を抱くようになる
続きます。↓
内閣総理大臣東條英機が独裁色を強めるとこれに激しく反発。
1942年1月1日、朝日新聞に掲載した『戦時宰相論』が東條英機の怒りにふれ発売、配布禁止。
早稲田大学大隈講堂において、「天下一人を以て興る」という演題で2時間半にわたり東條を弾劾する大演説を行った
続きます。↓
中野の反東條の動きはますます高まり、東條内閣の打倒に動きはじめた。重臣会議の場に東條を呼び出し、戦局不利を理由に東條を退陣させようとする計画が進行。
一部の重臣が腰砕けになってしまい失敗
続きます。↓
警視庁は東方同志会他3団体の幹部百数十名を身柄拘束する中で中野も拘束、釈放。東條の直接指令を受けた憲兵隊によって自宅監視状態に。
自宅1階の書斎で割腹自決、机上に楠木正成の像と『大西郷伝』を置いたと伝えられている。
とありました。終わり。
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